追悼と謝辞:新崎盛暉さんを偲んで

3月31日、新崎盛暉・沖縄大学名誉教授が永眠されました。享年82。

新崎さんは高文研の沖縄に関する出版活動と、長くかつ深い関係のある方です。

以下は、そのことを記念して、お礼の気持ちをこめ、新崎さんと高文研とのかかわりを記したものです。





 
 高文研では沖縄戦や基地問題、環境問題などを中心に数多くの沖縄に関する本を出版してきました。その数は現在80点を超えます。

 その出発点をつくってくれたのが、沖縄現代史研究の第一人者で、沖縄大学の学長を2度にわたって務めた新崎盛暉さんでした。


 その新崎さんと私(梅田)の出会いは、遠く54年前にさかのぼります。1964年6月、雑誌『世界』に「12回目の『屈辱の日』――沖縄の4月28日」というルポが載りました。



当時の沖縄は米軍の占領支配下にあり、日の丸を掲げることは固く禁じられていました。それに対し、沖縄の祖国復帰協議会(復帰協)に結集した人々は、米軍支配からの脱却・日本への復帰を願うシンボルとして日の丸を掲げてたたかいます。

米軍がそれを撤去させると、こんどは横に長い長方形の真ん中に赤い丸を描いた変形日の丸を作るなど、柔軟で機知に富んだ沖縄の人々のたたかいを伝えていたのが、そのルポルタージュでした。



当時、三省堂で『学生通信』という高校生対象の月刊誌の編集を担当していた私は、さっそく『世界』編集部に電話をし、ルポの筆者、新田暉夫氏を紹介してほしいと頼みました。返事は、新田暉夫というのは実はペンネームで、連絡先については筆者の了承を得てから伝える、ということでした。


ほどなく了解を得て新田暉夫氏をたずねました。それが、本名・新崎盛暉氏だったのです。当時は、1952年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約によって、本土から切り離され米軍の占領統治下にあった沖縄へ渡航するにはパスポートが必要であり、米軍ににらまれると渡航許可が下りない恐れがあったのです。そのためのペンネーム使用だったのでした。


新崎さんにはその後、沖縄の苦難の歴史を含め、『学生通信』に何度か寄稿していただきました。沖縄の状況が本土ではまだよく知られていない頃のことです。
以後、組合の集会で新崎さんに講演を頼んだりして新崎さんとの交友が続きました。




1972年5月、沖縄の施政権が返還され、沖縄は日本に復帰します。沖縄の人々が望んだ「平和憲法への復帰」ではなく、広大な米軍基地を背負わされたままの復帰でした。沖縄は「4・28」につづいて再度、本土(日本政府)から裏切られたのです。


同年2月、『学生通信』が廃刊に処せられたため、私たちは高文研を設立、『学生通信』の編集方針を受け継いだ『月刊・考える高校生』を創刊します。全国の多くの高校の先生たちがそれを応援し、支えてくれました。


2年後の74年、新崎さんは都庁をやめ、父母の出身地である沖縄に戻り、沖縄大学に勤務することになります。長い米軍占領下(本土より20年も長く続いた)で沖縄全体の経済復興は大幅に立ち遅れており、沖大にも苦難がつづきます。そうした中、新崎さんはやがて副学長に選出され、学生への講義とあわせ大学経営にとりくむ場に立つことになります。



その新崎さんが、79年のある日、高文研に現われました。沖大に本土からも学生を募集したい、ついては『考える高校生』に学生募集の広告を頼みたい、という話でした。沖大は地域に生きる大学として市民講座なども積極的に行なっている大学です。新崎さんはそうした新しい大学像を追求するとりくみの中心に立っていたのでした。


一方、私の方も、2年前に沖縄の高校を取材し、インフラの上でも(当時は校舎の不足でどの高校も生徒数1500人を超えるマンモス高校だった)また先生たちの教育研修などの面でも、大きなハンディキャップを背負わされていることを見てきており、沖縄の教育になんらかの貢献ができないだろうかとひそかに思っていました。



話しているうちにどちらからともなく、沖縄で先生たちのための教育セミナーを開催しようということになりました。高文研は全国の読者の先生たちに呼びかけて参加者をつのると同時に、講師陣を用意する、沖大は現地の先生たちに参加を呼びかけるのとあわせ、会場の確保や運営などセミナーの設営を受け持つという役割分担です。




こうして81年7月末、第1回の教育セミナーを開きました。幸い好評でしたが、2回目は本土からの参加者も40人ほどあり、せっかく沖縄に来たのだからと、最終日に1日がかりで沖縄戦の戦跡と米軍基地をバスで見てまわるという企画を立てました。

ところが驚いたことに、沖縄現地の参加者からもこのフィールドワークを申し込んだ人が大勢あったのです。つまり、当時はまだ、沖縄の先生たちの多くも沖縄戦の戦跡や基地を正面から見てまわる機会がなかったのでした。

そのことに衝撃を受けたことから、1冊の本の企画が生まれました。

『観光コースでない沖縄』です。


筆者は新崎さんのほか、フィールドワークで戦跡のガイドを引き受けてくれた沖縄戦の研究者と、基地をガイドしてくれた地元紙『沖縄タイムス』と『琉球新報社』の基地担当記者のみなさんです。ほかに沖縄の産業や離島の解説の書き手は新崎さんに紹介してもらいました。



この本は沖縄の現実を伝える本として息の長い本となり、現在4版を重ねています。筆者は変わりましたが(『新報』のTさんはその後社長となり、『タイムス』のNさんは編集局長となったので基地関係の記述は現場記者にバトンタッチしました)中心はもちろん新崎さんでした。


沖縄セミナーはその後、1990年まで10回つづけましたが、89年にベルリンの壁が崩壊、冷戦が終結して沖縄を取り巻く状況も大きく変わると考えられたので、相談のうえ終わりにしました。


ところが、ヨーロッパでは冷戦終結とともに米軍基地も大きく削減・縮小されましたが、しかし東アジアには「平和の配当」はありませんでした。韓国、日本を中心に米軍の10万人前方展開は何ら変更されることなく、沖縄の米軍基地は逆に強化されてゆくのです。


それに加え、もうひとつ新たな状況変化がありました。92年から東京都の高校修学旅行に航空機の使用が認められたのです。
この変化はつづいて首都圏の高校に波及しますが、この条件緩和により沖縄への修学旅行が可能になりました。自分たちの国、日本についての固定した単一のイメージを見つめ直す場として、沖縄は修学旅行に最適の目的地です。
当然、沖縄への修学旅行の増加が期待されました。


そこで、引率する先生たちの下見の機会を提供することを主目的に、こんどは高文研独自で「沖縄戦跡・基地ツアー」を年1回行なうことにしました。


また、沖縄へ行く高校生にも無理なく読める案内書として、高文研で『沖縄修学旅行』を出版します。この『沖修』出版にも、もちろん新崎さんに参加していただきました。



以上のような沖縄セミナーにかかわる活動のほかにも、新崎さんには4冊の本を高文研から出版していただきました。
まず、86年の『沖縄・反戦地主』です。


新崎さんは70年代からかかわった「金武湾を守る会」の住民運動(金武湾に巨大な石油備蓄基地を建設することから生じる環境汚染に反対する運動)に続いて、80年代に入ると当時200人余りを数えた反戦地主(自分の土地を米軍基地として使用することを拒否する人たち)を支える「一坪反戦地主運動」を立ち上げ、その中心で活動することになります。


その活動から生まれたのが『沖縄・反戦地主』でした。(これは95年に「新版」となります。)


その後2008年には、新崎さんが中心となった共同執筆で、『小さな大学の大きな挑戦』を出版します。地域に生きる大学としてユニークな教育実践を重ねてきた沖大の活動を歴史的にまとめたものでした。折から問題になっていた大学の在り方をめぐる論議に一石を投じた問題提起の書でもありました。


2009年には、新崎さんほか宮里政玄、我部政明さんの編著になる『沖縄「自立」への道を求めて』を出版しました。オビでは「基地に依存しなければ沖縄の経済は本当に成り立たないのか」と問いかけています。

 今日の沖縄の「自己決定権」確立を求める世論形成に先鞭をつけた問題提起の書であり、また沖縄に対する誤解・曲解・無知をただしてゆく先駆けとなった本でした。




新崎さんの高文研からの最後の本となったのが、『新崎盛暉が説く構造的沖縄差別』です。

日本政府が沖縄の民意を無視して強行する辺野古の新基地(飛行場・軍港・弾薬所が一体となった米海兵隊の半永久的な根拠地)の建設が進むにつれて、沖縄で聞かれるようになったのが、この「沖縄の構造的差別」でした。


たんなる地域的差別ではない、「対米従属的日米関係の矛盾を沖縄にしわ寄せすることによって、日米関係を安定させる仕組み」、つまり日米軍事同盟のための国家的な構造的差別、それが沖縄差別の本質だと見抜いた言葉です。
そしてこの沖縄の現状を端的に言い当てる言葉を言い出したのが、新崎さんだったのでした。



以上は、新崎さんと高文研の関係のあらましですが、こうした直接の関係にとどまらず、新崎さんの存在は高文研の沖縄問題にとりくむ出版姿勢に大きく影を落としてきました。

やや誇張していうなら、沖縄関係の企画を検討する際、新崎さんならこの問題をどう考えるだろう、ということが、常に私たちの頭の片隅にあったということです。高文研の沖縄関係の書籍に見られる一定の傾向は、このことと無関係ではありません。



新崎さんによる『観光コースでない沖縄 第4版』第1章のタイトルは、

「日本にとって沖縄とは何か」でした。


それはまた、沖縄の本を数多く出版してきた私たちの基本テーマでもありました。同時にそれは、本土に住む私たちに対する「沖縄にとって日本とは何か」という問いかけでもあります。
今年、沖縄は復帰後最大の「アイデンティティーの試練」に直面します。その重大な時期に新崎さんを失ったことは、残念のひと言では言い表せません。



せめても、新崎さんの書籍に残されたその研究・思索・行動の軌跡から、今後の指針を読み取っていきたい、と思います。(了)

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