アジア新風土記(68)近江の石塔寺




著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。










初冬の近江路は琵琶湖から吹きつける北風が冷たかった。
湖に沿った道から鈴鹿山地に向かって車で小一時間ほど行くと
石塔寺(いしどうじ)だった。
朝の柔らかな日差しが残るとき、この寺を訪れた。
低い山々は赤、黄のカエデが盛りを迎えていた。


石塔寺三重塔



ひっそりと佇む寺の入口から参道を30メートルも歩くと長く続く石段が見えた。
158もの石段を登り切って、頭を持ち上げると目の前に石でつくられた三重塔が屹立していた。
曇りがちだった空が、ほんの一瞬だけ青空を覗かせてくれた。
僥倖に思えた。




高さ7.5メートルもある巨塔は、見馴れた木造の、
例えば興福寺、東寺の五重塔とはおよそ異なっていた。
屋根は扁平のまま反ってもいない。
屋根と屋根の間隔は間延びしているとさえ感じるほどに空き、
塔身がはっきりとわかる。
境内には木の温もりとはまた違う石の温かみがあった。
素材の相違だけでない不思議な力が迫り、このような形に仕上げた人の
息遣いが伝わってくるようだった。


石塔の周りには無数の小さな五輪塔、石仏が並んでいる。
その中に若い青松が一本生えていた。
何本かの南天も赤い実をつけていた。
静謐な石造物の世界に、一際鮮やかな木々の色合いだけが躍動していた。



石仏石塔群の中の青松




一見奇異な三重塔は7世紀後半の造立とされる。
朝鮮からの渡来人が深く関わり、朝鮮半島の三国時代、百済の王都扶余にある定林寺址五重石塔が原型ではないかともいわれる。

韓国の歴史家、鄭永鎬氏は『石塔寺三重石塔のルーツを探る―日韓文化交流シンポジウムの記録』(蒲生町国際親善協会編、サンライズ出版、2000年)に
「これは百済的な石塔だと感じた」と書く。

「屋根は平たくて、とても薄い」「屋根の下、雨が降ったら水が落ちる部分に彫りこみがあります。これは日本の石塔では見られない特徴だと思います」


この時代、朝鮮からの渡来人は多かった。
『日本書紀』は669(天智天皇8)年に
「鬼室集斯(きしつしゅうし、百済人=筆者注)等男女七百余人を以て、近江国の蒲生郡に遷し居く」と伝え、百済人の三重塔説を裏付ける。
百済は新羅・唐連合軍によって660年に滅亡。
集斯は日本に亡命、その後、教育を司る「学識頭」に任じられる。



石塔寺から約2キロ南東に集斯を祀る鬼室神社がある。
農道を少し広げたような道筋の小さな森に、訪れる目的がなければわからないほどだ。
山間に稲株だけが残る田が広がり、神社の木立が風に少し揺れていた。


鬼室神社のある小さな森(中央)



質素な社殿だった。かつては不動堂といわれ、煌びやかさとは無縁の社だった。

裏に集斯の墓とされる石造りの小さな祠があった。
ざらざらとした花崗岩の祠は、表面がコケで緑がかっていた。
すぐ隣には杉の大木があった。
神社は近在の人たちによって守られ、境内は常に掃き清められているのか整然としていた。
静かだった。


鬼室集斯の墓とされる祠

鬼室集斯の小さな祠に、高句麗の高麗人を率いた高麗王若光の墓が埼玉県・高麗神社にあったことを思い出す。(「アジア新風土記17」参照)


百済の滅亡後、新羅・唐の連合軍は三国時代のいま一つの強国高句麗に攻勢をかける。
王族の一人若光は666年に日本に支援を求めるが、2年後の滅亡によって留まることになる。
多くの高麗人も広く関東の地に住みつき、『続日本紀』は716(霊亀2)年に武蔵国に高麗郡が置かれ、相模、上総など「東国七国」に暮らす1799人が集められたと記す。


高麗人は百済人が近江に居を構えたのと相前後して逃れてきたにもかかわらず、はるかに未開の関東に向かわなければならなかった。
近江の地に高麗人に分け与える土地はすでになく、同じ朝鮮でも百済人は高麗人と一緒に暮らすことをよしとしなかったのか。
集斯らは朝廷に対して、高麗人の東の地への移住を画策したのか。
若光と集斯は朝廷内で遭遇したかもしれない。
共に大和政権に身を寄せた二人が会ったとしても不思議でない。
そのような史実があったのかどうか。


百済と高句麗の遺民らを受け入れたのは天智天皇だった。
彼は百済再興を謀って派兵した水軍が朝鮮半島西岸の白村江で大敗してから4年後の667年、奈良飛鳥から近江の大津に遷都する。
辺りは古より錦部(にしこり)郷と呼ばれ、機織り関係の職務に携わっていた渡来人が多く暮らしていた。

琵琶湖の西岸から1、2キロほど入った近江大津宮錦織遺跡は、京阪石山坂本線近江神宮前駅の西に木柱の並ぶ内裏正殿跡などの遺跡群が続いていた。
発掘された遺跡の手がかりは、それぞれ小さな標識がその位置を示しているだけだった。



大津宮錦織遺跡


遷都は一つには新羅が襲来したときの備えともいわれるが、湖のほとりが要害の地とは思えない。
昔は違っていたのか。百済人の助言、あるいは一帯の百済人が助けになると感じていたのか。翌年には高句麗が滅亡している。
大和政権にとっては「くに」の存亡をかけた緊張の日々だったと想像する。

石塔寺の三重塔から鬼室神社、大津宮錦織遺跡へと足を運び、さらに高麗神社のことも振り返りながら、往時を思う。
日本と朝鮮半島の交流は、「交流」と改めて言うよりもはるかに人々と物の行き来が頻繁であり、自由だったのではないか。
現在に比べると「国境」というものの概念が曖昧で、古代人には日本海の海も陸地に続く道のような存在だったのかもしれない。


宿をとった草津への道すがら、近江八幡市に「朝鮮人街道」のあることを知る。

江戸時代、朝鮮からの使節団「朝鮮通信使」が通った道だ。朝鮮国(高麗)国王の親書を携えた通信使は1607(慶長12)年から11回に及んだ。
一行は多い時には500人ほどの規模になり、市内の本願寺八幡別院で食事をとったといわれる。
通りは市街地の東西に続き、道幅5メートルほどだった。
両側には商家が並んでいた。普通の市道と変わりはなく、わずかに「朝鮮通信使」の石碑が街道の由来を語っていた。

朝鮮人街道は滋賀県の野洲から彦根までの40キロに限って呼ばれている。
通信使の行程は対馬から江戸までの長い道のりだった。
街道はいくつもあったが、他には聞かない。
近江の朝鮮と近い歴史がその名を残したのだろうか。


朝鮮人街道

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