アジア新風土記(17)埼玉・高麗神社



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。












埼玉県南西部の高麗(こま)の里の晩秋を歩いた。雑木林が赤く黄色く色づき始めた一帯は高麗郷(こまごう)と呼ばれ、7世紀半ばに朝鮮半島北部の高句麗(高麗)から逃れてきた王族「高麗王若光」と高麗人を祀る高麗神社がある。JR八高線高麗川駅からは20分ほどだ。道すがらなだらかな丘陵が続き、畑地と雑木林と民家がモザイク状に点在していた。



高麗の里





静かな山間の里山はどこか奈良の新薬師寺の裏道を歩いているような風情を見せていた。新薬師寺から白毫寺への道の端に野菊が咲き、畦道の遠くに柿の木があったことを思い出す。大和路の記憶は韓国ドラマで以前見た田舎の古刹へと手繰られていく。辺りの佇まいはかつて訪ねた奈良の寺に似ていた。なぜか懐かしく感じられた気持ちの先には朝鮮との深いつながりへの思いがあった。まだ見たことのない朝鮮の里山も、高麗郷のような風景が広がっているのだろうか。

秩父山地を源とする高麗川が高麗郷に流れ込み、高麗神社はその川筋にあった。「一ノ鳥居」をくぐって参道を進む。鳥居こそ日本の神社そのものだが、「天下大将軍」「地下女将軍」と記された「将軍標」だけが異質だった。社務所の「境内案内」は「朝鮮半島には『チャンスン・長丞』と言われる標柱を立てる風習があります。将軍標(しょうぐんひょう)とも呼び、日本の道祖神にも似た習俗です。朝鮮半島では村や寺院の入口に立ち、魔除けや道標の役割を荷(ママ)なっています」と書く。在日本大韓民国民団(民団)からの寄贈という。




将軍標。二つの石柱の間には韓国の国花ムクゲが植えられていた。




社殿・内拝殿は戦前に建てられたもので、社殿前の扁額は「高句麗神社」とあり、「句」の字だけが小さかった。明治33年に参拝した朝鮮王朝の貴族趙重応の筆になり、高句麗と後に興った高麗(こうらい)を区別するためそのままにしているという。

神社創建の由来を高句麗の時代に辿る。古代東アジアの強国は、朝鮮半島北部から現在の中国東北部まで領有し、日本への影響も奈良県明日香村の高松塚古墳、キトラ古墳の壁画の人物画などによって知られる。絵の具、墨、紙の製法を伝えた僧曇徴は高麗人だった。

高句麗に665年、後継争いが起こり、唐と新羅の連合軍はこの機に攻勢を仕掛ける。この時に高句麗の外交使節が大和朝廷に派遣されたが目的は何だったか。当時の大和朝廷は2年前の663年に百済再興を期す遺民に加担して白村江で唐新羅連合軍に戦いを挑んで敗退している。朝鮮半島に再び攻勢をかける余裕などなかったはずだ。

高句麗使節団には王族の一人高麗王若光がいたとされる。668年の高句麗滅亡によって多くの高麗人が日本に亡命、若光も再び帰ることはなかった。

若光は朝廷から従五位下の位を与えられ、続日本紀は703(大宝3)年に「高麗賜王姓」と残す。同書には719(霊亀2)年に武蔵国に高麗郡が置かれ、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の「東国七国」に暮らす高麗人1799人が移住したとある。異国で一度は落ち着いたところを再度移住させられた人たちは、新たな地での再会を喜び合うことができたのか。初代郡長は若光だった。原野を開拓、開発する上で王族の指導者の存在は大きく、人々は若光の死後、その徳を偲び、霊を祀り、高麗郡の守護神とした。


境内の石柱、石碑、樹木は、古の時代と近代を行きつ戻りつさせてくれる。続日本紀の一文を紹介する石碑を前にした高麗人への思いは、昭和17(1942)年に朝鮮王家・李王垠殿下と方子妃殿下が植樹した一対の杉の大木によって一気に朝鮮植民地の時代に戻る。一の鳥居脇の「高麗神社」の石柱は昭和14(1939)年に立てられ、「朝鮮総督陸軍大将南次郎書」とあった。


高麗神社。江戸時代までは「高麗大宮大明神」と称され、参拝した政治家らが名を挙げたことで「出世明神」とも呼ばれている。


朝鮮半島と日本は古代より深いかかわりを持ち続け、日本の植民地支配という朝鮮の人たちにとっては決して忘れ去ることできない痕跡を歴史に残した。相克はいまも従軍慰安婦問題、元徴用工問題として続く。日韓両国のせめぎあいの背景の一つは相手を十分知らないことから生じる理性と感情の行き違いにあるのか。しかし、それだけか。私自身にとっても朝鮮半島はまだ、その歴史、人々の暮らしに始まって、知らないことの多過ぎる地域だ。

韓国の人たちは家の中に花を生けないことも詩人の茨木のり子さんの「野の花」で知る。

「訪れた韓国人の家で、花が生けてあるのも見た記憶がない。しりあいの韓国人に聞いてみると、花を生ける習慣がないのだと言う。(中略)野草であれ、高山植物であれ、珍しいものをみつけると、思わず引っこぬき、盆栽や庭に植えて、我がものとして愛でなければ気がすまない日本人と、〈花は野に置け〉の韓国人との違いでもある」(『一本の茎の上に』所収、ちくま文庫、2009年)

文庫本の最後に「1994年11月、筑摩書房より刊行された」とあり、すでに25年以上経っている。韓国の人の暮らしも変わったかもしれない。しかし「野の花」から二つの地域の人々の考え方、文化の相違の一端を教わったような気がした。


高麗川を上流に遡っていくと、巾着田に出る。高麗人が大きく蛇行する川の水を利用して水田をつくり稲作を始めたと伝えられる土地だ。巾着袋の形に似た約22ヘクタールの土地は「川原田」ともいわれ、昭和40年代になって地元の日高市が買収して草刈りをしたところ、曼殊沙華の群落を発見する。「ヒガンバナ」が一般的だが、なぜかこの地では異国のにおいのする曼殊沙華という言い方が似合っている。中国原産でサンスクリット語の「赤い花」を音写したといわれ、仏典では天上の花という意味もあるという。

朝鮮の地でも曼殊沙華は「ソクサン」と呼ばれ、山間などに自生している。その昔、高麗の人たちは自生する曼殊沙華をそのまま「野の花」として愛し、庭に植えたり、鉢植えなどにはしなかったのだろうか。

日高町ウエブサイトによれば巾着田の曼殊沙華は約500万本という。雑木林に咲く赤い花はアマチュア写真家らの絶好の被写体になっていたが、2020年、21年は、日高市がコロナ禍での観光客密集を避けるため、開花前にすべて刈り取った。


高麗川駅前に韓国料理店があった。歩き疲れた体が誘われるままに、石焼ビビンバとチヂミを注文する。高麗郷で食べる味は格別だった。

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