アジア新風土記(50)元徴用工問題の「決着」

 



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。







朝日新聞デジタル



2023年3月6日、韓国政府は元徴用工の賠償請求訴訟問題について、政府傘下の財団が寄付金で日本企業に命じられた賠償分を肩代わりする「解決案」を発表、尹錫悦大統領は「未来志向的な韓日関係へと進むための決断」と述べた。

日本政府も岸田文雄首相が「日韓関係を健全な関係に戻すためのものとして評価する」と応じ、植民地支配への「反省とおわび」を盛り込んだ歴代内閣の歴史認識の継承を表明する。

両首脳は16日の尹大統領訪日後の首脳会談で「シャトル外交」再開についても一致した。





「決着」の背景は主に韓国側の事情が大きかった。

北朝鮮の核・ミサイル開発加速によって文在寅前大統領時代の親北路線の修正を迫られ、米国と日本との安全保障面での協力関係を再構築したいという意向は強かった。

4月の大統領訪米を前に米国の信頼を回復したいという思惑もあった。
日本としても米中対立、台湾、北朝鮮問題への対処を考えれば関係改善は喫緊の課題だった。米国は東アジア政策の要の一つとして日韓との協力を重視する。
バイデン大統領が直ちにコメントを発表したことは、歓迎、安堵の表れでもあった。

元徴用工問題は2018年10月30日の韓国大法院(最高裁)判決を契機に日韓両国の大きな懸案になっていた。判決は雇用を植民地支配と結びついた反人道的な不法行為だと指摘、1965年の日韓請求権協定が「解決済み」とした事項に不法行為への個人の慰謝料請求権は含まれないとした。

その上で第2次大戦中に日本製鉄(旧新日鉄住金)本土工場に動員された韓国人元徴用工4人の訴えを認め、同社に1人1億ウォン(約1100万円)を支払うよう命じた。大法院は同年11月にも三菱重工業に同様の判決を言い渡した。

原告側は判決後、日本製鉄、三菱重工業の韓国との合弁企業の株式差し押さえを地裁に申請する。
日本政府は「解決済み」として譲らず、両社も支払いには応じなかった。
不二越(富山市)など70社以上がいまもこの問題で係争中なだけに、譲れないということか。



韓国政府は廬武鉉政権当時の2005年に請求権協定で得た無償3億ドルに補償問題解決資金が含まれるという見解を発表していたが、大法院判決を司法問題として静観した。
両国とも歩み寄りの機会を見出せないまま、日本側の資産現金化問題が焦点になっていた。


この問題が日韓関係を悪化させた理由の一つは、双方の解釈が相手を説得するだけの明快な根拠を欠いていたことにあるのかもしれない。

2019年10月11日付けの朝日新聞は、韓国政府高官の「政府は個人の賠償請求権は生きているとの立場を維持してきた。大法院判決はこれを確認したものだ」という発言を伝え、同志社大の浅羽祐樹教授(韓国政治)の「政府の立場に一貫性がない。信義則が破綻しかねない」というコメントを載せる。

日本についても神戸大院の玉田大教授(国際法)が同紙面で「国際社会は1990年代以降、人権がより重視されるようになっている。請求権協定によって『解決済み』という日本の主張はICJ(国際司法裁判所=筆者注)の裁判官の共感を得づらいだろう」と語る。


大法院の植民地支配が不法であるという認識は、日韓関係を考える上での根源的な問題を改めて提示したといえる。両国政府はこの問題に深く関わることを避けた。

日本が朝鮮半島を植民地とした1910年の韓国併合条約については戦後の国交正常化交渉でもその合法性をめぐって両国の主張が対立、1965年に結ばれた日韓基本条約は「併合条約はもはや無効」という曖昧な表現で決着している。

元徴用工らは日本でも裁判を起こしてきたが、敗訴が続いた。
日本政府は当初の「個人の請求権は消滅しない」とした考えから国際的協定上の約束は請求に応じる法律上の義務はないという解釈に転じる。

2007年に最高裁が中国人強制連行訴訟で個人の賠償請求は日中共同声明の請求権放棄の対象になるとした判例が日韓請求権協定にも適用され、裁判による救済の道は事実上閉ざされていた。
政府の消極的な対応は台湾籍旧日本兵らへの戦後補償が一向に進まないことなどからもみてとれる。


解決案は政治決着の色合いが濃い。韓国社会は「納得」するのだろうか。

韓国政府は大法院判決で賠償が認められた原告・遺族らとの対話を続けてきたとする。
鉄鋼大手ポスコも財団への40億ウォン(約4億1000万円)の寄付を発表した。
だが、原告の一部からは「日本の被告企業による賠償の責任をなぜ被害国である韓国が代わりに弁済するのか」といった非難が起き、生存する原告3人は「肩代わり弁済には応じられない」との意思を明らかにする。

最大野党「共に民主党」の報道官も「尹政権が歴史の正義を否定し、日本に屈従する道を選んだ」と大統領に矛先を向けた。



尹大統領は解決案発表直前の3月1日、日本統治下の1919年に起きた「3.1独立運動」式典で日本について「過去の軍国主義の侵略者から我々と普遍的な価値を共有するバートナーになった」とも述べた。
弱腰な対日姿勢との指摘も生まれかねない。岸田首相が首脳会談後、反省と謝罪に言及しなかったことへの批判もある。

一方で日本では2015年の元慰安婦問題での合意が空文化されたことから懐疑的に捉える見方も少なくない。





2023年1月、韓国からの訪日客は全体の38%にあたる57万人になった。日本から韓国を訪れた人も43万4400人中6万6900人と15%だった。
共に訪問国のトップを占める。
交流は若い人たちを中心にコロナ禍を乗り越えるかのように広がっている。
動きは国家間の関係にどこまでインパクトを与えられるか。



戦争中に被害を受けた個人に対して国がどこまで責任を負えるかは、解決への明確な道筋のないテーマだ。元徴用工は一年、一年と老いていく。
時代を前に動かすためには「一刻も早い補償を」という考えと原則論に立った意見は常に拮抗する。


被害を訴える人がいなければ「罪」は消えるかという問題もある。
そして「罪」は何年前まで遡ることができるのか。
1997年の香港返還時、英領植民地最後の総督だったパッテン総督は会見で英国の19世紀中頃のアヘン戦争の「罪」について、そのような過去に責任は持てない、と語った。160年ほど前の出来事だ。訴える人はすでにいない。

英国が中国大陸で大量のアヘンを売り捌いた責任は問われないのか。そんなことも思った。

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