梅田正己のコラム【パンセ14】 知ってますか、 日韓請求権協定の原文

デッドロック化した日韓関係の打開に向け、韓国政府は懸命に模索している。

しかし日本政府は「徴用工問題は日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決済み、国と国との約束は守ってほしい」と繰り返すだけだ。

それで果たして済ませていいのか?

 

1965年締結の日韓基本条約の最大の問題点は、「1910年8月22日(韓国併合)以前に日韓間で締結されたすべての条約及び協定はもはや無効であることが確認される」の条項だった。

日本が「韓国併合」条約は「合法」と主張したのに対し、韓国は、この「併合」は3年前に軍隊を解体させられた上での強制によるもので「非合法」と主張、結局どちらも自国に都合の良いように解釈できる玉虫色の条文になったのだった。

 

この「1910年8月22日以前に」を「22日より前に」と解釈すれば、1876年の江華島条約をはじめ諸協定は無効となるが、併合条約は有効、つまり「合法」となり、したがってそれ以降の植民地支配も「適法」となって、「賠償」や「補償」は無用となる。これが日本側の主張だ。

しかし歴史の事実からすれば、併合条約が合法的に結ばれたなどと言えるはずがない、というのが韓国側の主張だ。その根拠として、以下の事実がある。

 

1904年2月、日露戦争の開戦直後に日本が韓国政府に強要して結んだのが「日韓議定書」だった。中身は、日本軍は作戦上必要であれば韓国の土地を自由に接収し、使える、というものだった(日本軍はまず朝鮮半島に出兵、上陸してから北上した)。

次いで、同じ戦争中の同年8月、「日韓協約」を結ばせる。内容は、韓国政府は財務顧問として日本人1名を招く、外交顧問として日本政府の推薦する外国人1名を置く、というものだ。つまり財政と外交を監視下に置いたのである。

日露戦後の1905年11月、「第二次日韓協約」を締結する。内容は、韓国の外交は日本の外務省が指揮する、日本政府はその代表としてソウルに「統監」を派遣し、韓国外交を管理する。統監はいつでも韓国皇帝に会う権利を有する、というものだった。

この協約によって、日本は対外的には韓国をその腕の中に抱え込んでしまったので、「保護条約」と呼ばれるが、この協約を特派大使となって韓国政府に呑ませたのが、伊藤博文だった。

そしてこの伊藤が初代統監となって、1907年、韓国に押し付けたのが、「第三次日韓協約」だった。内容はこうである。

 

韓国政府が行なう法令の制定、重要な行政処分は、あらかじめ統監の承認を得ることとする。

韓国高等官吏の任免は統監の同意を得て行ない、かつ統監の推薦する日本人を官吏に任命すること。また統監の同意なくして外国人を雇ってはならない。

裁判所については、大審院(最高裁)を置く。ただし院長は日本人、検事総長も日本人とする。

控訴院(高裁)は、判事のうち2名が日本人、検事のうち1名は日本人とする。

地方裁判所においては、所長および検事正は日本人とする。

新設する監獄の所長は日本人、看守長以下看守の半数も日本人とする。

韓国軍隊は、解体する。

 

こうして日本は、韓国の財政と外交を手始めに、行政、立法、司法のすべてを統監(日本政府)の支配下に置き、軍隊を解散させたのである。

つまり、日本による韓国支配の体制はこの「第三次協約」で基本的に完了していた。その3年後、「併合条約」が締結される。

「手と足をもいだ丸太にしてかへし」は鶴彬の有名な反戦川柳だが、1910年8月の「韓国併合」条約は、いわば韓国政府の手と足をもいだ上で締結されたのである。

 

以上のような事実経過を知りながら、それでも「併合条約」は強制によるものでなかったと主張するのは、通常の理性と神経ではとても考えられないが、しかし日本政府は「併合条約」の締結は「合法」、したがって植民地支配は「適法」との主張を押し通した。

そのため、土地や資源のみならず韓民族の言葉や歴史、さらには氏名まで奪い、戦時下には鉱山や工場、土木現場での強制労働だけでなく戦場にまで軍人・軍属として駆り出した(沖縄戦では朝鮮人軍夫、約1万人が死んだとされる)ことに対する「賠償」「補償」についての協議は、日韓会談から排除され、代わりに当時の軍事独裁政権が最も欲していた「経済協力」にすり替えられた。国交正常化のための「日韓基本条約」と合わせて締結された条約の名は、だから「日韓請求権並びに経済協力協定」となっている。

 

では、その「請求権協定並びに経済協力」にはどう書かれているか。

第一条の(a)には、日本は韓国に対し3億ドル相当の「日本国の生産物及び日本人の役務」を供与するとあり、(b)には、2億ドル相当の「日本国の生産物及び日本人の役務」を長期低利で貸付ける、となっている。

一般に無償3億ドル、有償2億ドルといわれるが、その3億ドル、2億ドルは現金ではなく、日本の国税を使って、日本の企業が重化学工業製品と技術者を韓国に提供するというものだった。つまり日本企業の韓国進出である。

この「経済協力」を起爆力として韓国は経済建設に励み、「漢江の奇跡」ともいわれる発展を遂げた。しかし一方、それによって日本企業も大いに潤ったのである。日韓両国の貿易は、以後一貫して日本の黒字である。

 

「日韓請求権並びに経済協力協定」の第二条にはたしかに、「両国及びその国民間の請求権に関する問題は……完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と書かれている。

しかしこの日韓会談では、植民地支配や戦時動員に対する賠償・補償の問題は、日本側の拒否によってまともに協議されることなく、経済協力にすり替えられた。

基本条約にしても、「併合条約」についての基本的な認識が対立したまま、どちらにも解釈される玉虫色で決着がつけられた。

 

それから54年がたつ。この間、世界の状況は大きく転回し、人権に対する意識も広く深く覚醒された。そうした中での元徴用工による精神的慰謝料要求についての韓国大審院の判決である。しかし日本政府は一顧だにせず、政治的思惑がどす黒くまとわりついた協定を、あたかも金科玉条のごとく振りかざし、「解決済み」と老いた犠牲者を突き放している。

 

今年は、1939年、ナチスドイツがポーランドに侵攻してから80年になる。その9月1日、ワルシャワで開かれた記念式典には40カ国の首脳らが参加したが、そこでドイツのシュタインマイヤー大統領はこう述べたという(朝日新聞10月5日付)。


「ドイツの犯した歴史的な罪への許しを請いたい」「我々はポーランドに与えた傷を忘れない」

 

こういう指導者の言葉を、われわれはいつになったら聴けるのだろうか。

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