梅田正己のコラム【パンセ11】 沖縄から見る「平成30年」

沖縄から見る「平成30年」


「平成」から「令和」への転換を前に「平成30年」とは何だったのか、がしきりに問われている。よく聞かれる答えが「戦争のなかった30年」である。昨年12月23日「天皇誕生日」の天皇の「おことば」でも、こう述べられていた。

 「平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが……」

 たしかに日本が主体的に戦った戦争はなかった。でも本当に「戦争から無縁だった」「戦争を経験しなかった」と言えるだろうか。

 

 1989年(平成元年)以前と、それ以後とで、決定的に変わったことが一つある。89年以前は決して海外に出ることのなかった自衛隊が、以後は海外に出動できるようになったことである。

 

 転換は早くも91年から始まった。クウェートに侵攻したイラクに対し、米国を主体とする多国籍軍が攻撃、イラクの完全敗北により湾岸戦争が終わった後、ペルシャ湾の機雷除去のため海上自衛隊の掃海部隊(母艦1隻と掃海艇4隻に補給艦1隻)が出動したのである。

 次いで92年にはPKO協力法が成立、陸上自衛隊のカンボジア派遣を皮切りに、以後モザンビーク、ルワンダ、ゴラン高原、東ティモール、南スーダンと自衛隊の海外出動が常態化していった。

 

 2001年、9・11同時多発テロ事件が起こると、ブッシュ米大統領は“主犯”のオサマ・ビンラディンをアフガニスタンのタリバン政権がかくまっているとしてアフガンへの空爆を命じる。その空爆を小泉政権はただちに支持、特急で「テロ対策特別措置法」を制定し、海上自衛隊の補給艦をアラビア海に派遣した。

 以後、海自の補給艦は米国をはじめ英国ほかの参戦諸国の軍艦に燃料補給を続ける。海上の無料スタンドとして歓迎された。航空自衛隊もまた米軍兵士を輸送して米軍の作戦行動に協力した。

 


 03年、ブッシュ大統領はイラクが大量破壊兵器を隠し持っているとして、アフガンに続きイラクへの攻撃を再開する。そのイラク戦争に、小泉政権は「イラク復興支援特別措置法」をつくり、04年初頭から陸自の派遣を始める。

 派遣部隊は1回が500人、それが06年まで10次にわたって行われたから、合計5000人の陸自隊員が“戦地”を体験したことになる。

 一方、空自も04年から08年まで16次にわたって派遣された。こちらは1回あたり200人だったから、延べ3200人の空自隊員が“戦地”を経験したわけである。

 


 こうして自衛隊の海外出動を積み重ねた上に、15年7月、安倍政権はいわゆる安保関連法を成立させる。それにより、政府が「存立危機事態」と認定すれば、自衛隊は米軍と一体となって作戦行動をとることができる、また「重要影響事態」と認定すれば、米軍だけでなく他の外国の軍とも地理的な制約なしに提携・協力して行動できる、となった。

 さらにもう一つ、新たに「国際平和支援法」を作ったことにより、諸外国の軍隊に対する協力支援活動ができることになった。つまり、そのつど「特措法」を作らなくとも、「国際平和共同対処事態」だと認定すれば自衛隊は多国籍軍に参加できることにしたのである。

 

 こうして自衛隊は、海外出動の実績の積み重ねと新たな法律の制定により、政府の判断次第で自由に海外へ出ていけることになった。すなわち「専守防衛」型から、「海外出動」型へと抜本的な転換をとげたのである。

 この30年間、日本は「戦争を経験しなかった」のではない。自衛隊の海外出動を通して十分に「戦争を経験」してきたのである。「経験しなかった」というのは、それを認識していないからにすぎない。

 

 自衛隊の基本的な戦略も、装備とともに大きく変わった。陸上自衛隊の米海兵隊化は今世紀に入ったころから始まっていたが、尖閣諸島問題が生じて以来、とくにこの数年、自衛隊の戦略目標は南西諸島にしぼられてきた。 そのため昨年4月には「陸自発足以来の大改革」として陸自全体を一元的に指揮する総司令部「陸上総隊」を新設するとともに、その陸上総隊が直轄する「水陸機動団」が新たに編制された。

 この水機団はその名が示すように水陸両用車AAV7を駆使して、敵に占領された離島に敵前上陸しての「離島奪回」を主目的とする部隊である。昨年5月にはさっそく種子島で発足後最初の演習を行ったが、その演習後、同団の青木団長は「世界に冠たる水陸両用作戦部隊をめざしたい」と語っている(自衛隊準機関紙『朝雲』2018・5・31付)。

 水機団は当初は2100人でスタートするが、今後3000人規模にまで拡大の予定という。同団にはその名も「戦闘上陸大隊」という部隊があるが、今年3月には佐世保にその新たな訓練基地がつくられ、隊員160名が水陸両用車8両を伴って移駐した。

 

 また陸自の各地の師団や旅団も「機動師団」「機動旅団」に改編された。機動というのは、軍事用語で「迅速・機敏に移動する」ことをいう。つまり、陸自の主力全体が、いざ有事となれば、状況に応じて輸送艦や輸送機で前線に出動できるように改編されたということだ。

 その予定される「前線」がどこであるかは、岩屋防衛大臣が今年3月26日の閣議後の記者会見でこうハッキリと語っている。

 「今、日本の守りの最前線は南西地域だ。1200キロの幅があるので、防衛力、抑止力をしっかり構築したい」(『琉球新報』19・3・27付)

 

 そのためすでに16年には日本最西端の与那国島に陸自沿岸監視部隊150人を配備、次いで今年3月には奄美大島に地対艦・地対空ミサイル部隊210人と警備隊350人を配備した。

 あわせて宮古島にも、新たに駐屯地を開設、警備隊380人を配備したが、ここも奄美と同様に、地対艦・地対空ミサイル部隊を加えて700から800人に増員する予定だ。

 そしてもう1カ所、石垣島にも警備隊とミサイル部隊、計500人から600人の部隊を配備することにしている。

 

 一方、航空自衛隊では16年、第83航空隊を格上げして第9航空団とし、F15戦闘機を40機に倍増、人員も300人増員して1500人態勢に拡充した。

 

 このようにして南西諸島に配備されたミサイルや、那覇基地に増強されたF15戦闘機が、どの国を仮想敵国としているか、北朝鮮でもロシアでもないことは明らかであろう。

 

 周知のように、74年前、沖縄は「本土防衛」態勢確立のための時間稼ぎの捨て石として、50万人を超える米軍兵力に包囲され、沖縄本島の中南部は3カ月にもわたり地形が変わるほどの爆撃と艦砲の「鉄の暴風」にさらされ、県民の4人に1人が命を失うほどの惨禍を強いられた。

 その、国内で唯一「地上戦の戦場」にされた沖縄が、再びまた新たな戦争の「戦場」に設定されているのである。

 

 日本国民にとって、「平成30年」は「新たな戦争準備のための30年」であったが、沖縄にとってはその上さらに「新たな沖縄戦への30年」であり、自己決定権を侵害されつづけた30年だったのである。

                         (了)

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