アジア新風土記(114) 存立危機事態





著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。










日本と中国の関係が緊迫してきた。

2025年11月7日、高市早苗首相は衆院予算委員会で「台湾有事」の際に米軍が中国軍の海上封鎖阻止に来援したとき、応戦が

「戦艦を使って武力の行使も伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態になり得るケースだと私は考える」

と述べた。
個別具体的な状況に即し情報を総合して判断するため一概に述べることは困難とする従来の政府見解から踏み込んだ発言は、中国軍が台湾に侵攻した場合、自衛隊が米軍とともに集団的自衛権を行使する可能性があると受け止められた。



中国は直ちに批判、発言の撤回を要求する。
撤回しない限り相応の対抗手段を取るとして、日本への渡航自粛、各種会議の延期を打ち出し、再開したばかりのナマコなど日本産水産物の輸入を停止した。
日中韓首脳会談も延期の見通しだ。外交・安全保障から経済までの多岐にわたる分野への影響は軽率の一言では収まらないほどの広がりを見せている。
26日の党首会談では発言理由について「聞かれたので誠実に答えた」と答弁、外交的配慮も慎重さも欠いていたことを疑わせた。



首相は米軍の介入を前提としたが、台湾問題について「曖昧戦略」をとる米国はこうした事態への対応を明言していない。一存で「米軍出動」を公の場に持ち出したことは、米国、米軍の東アジア政策にどのようなインパクトを与えるか。

米国は日本側からの経緯説明の前にトランプ大統領が中国・習近平国家主席との電話協議で台湾問題を話し合ったと伝えられる。高市発言に触れたかは不明だが、鎮静化を図るべきとの認識を日本側に示したともいわれる。
米国への対応でも後手を踏んだとの感は否めない。



高市首相は就任直後の10月31日、アジア太平洋経済協力会議(APEC)が開かれた韓国・慶州で習近平主席と初めて会談、両国の共通利益のために協力する「戦略的互恵関係」の推進で合意した。

友好ムードを壊した一因は首相が会談翌日に台湾のAPEC代表とも懇談、握手する写真を自身のSNSにアップしたことにもある。
中国としては台湾代表と会った以上に写真を自ら公開したことで複雑で微妙な両岸(中台)関係を十分に理解していないとみてとった。

中国は不可分の領土である台湾は回帰しなければならない「核心的利益」と考える。外務次官の抗議声明にも「中国統一の大業に干渉しようとすれば、必ず正面から痛撃を加える」という表現があった。
過去に関係悪化をもたらした尖閣領有化、原発処理水問題などとは比較にならないセンシティブな問題だ。11月25日の閣議決定は、政府見解は従来通りであり発言再検討の必要はないとして撤回要求を退けた。
中国が再び「高市首相」と友好関係を築くことは難しく、対立の長期化は避けられそうにない。



日本政府は台湾有事をどのように捉えているのか。3月には有事を想定して沖縄県先島諸島の石垣市、宮古島市、与那国町などの5市町村から住民11万人、観光客1万人を6日間程度で九州・山口の8県32市町に避難させる計画を公表する。

避難準備は鹿児島県・屋久島でも進んでいるという。島に住む友人は「役場では病院の入院患者を島外に避難させるにはどれだけの船がいるかなどの検討が始まっている」と語っていた。日常に交わされる話が島民に緊張を強いているという感じは東京などでは分からないだろうとももらした。


自衛隊が中国軍と交戦するような局面になったとき、「戦場」は台湾海峡だけなのか。ミサイル部隊配備構想にシェルター整備が進む沖縄の離島にとどまるのか。屋久島だけで済むのか。本土の戦場化も否定できない。
高市発言からはしかし、戦争というものへの「おそれ」は窺えない。



日本にとって台湾とはなにか。

1945年のポツダム宣言は植民地・台湾の地位については将来の平和条約に委ねた。51年のサンフランシスコ講和条約で日本政府は台湾を放棄したが、帰属先は未定のままであり、翌年の日華平和条約でも台湾の帰属先については明言されなかった。
日本が中華民国(台湾)と断交して中華人民共和国(中国)と国交を樹立する共同声明では、日本は中国を唯一の合法政府として承認したが、台湾は中国の領土の不可分の一部であるとする中国の立場を十分理解し尊重するとした。


米国の台湾への見解もまた、台湾を国家として承認せず、同時に中国の主張も認めていない。前原志保九州大准教授の『新聞ですら間違えた「台湾問題」に対する日本政府の立場。「日本は台湾を中国の一部と認めている」と思い込む人たちの課題』(「東洋経済ONLINE」2025年11月18日)は、米中外交関係樹立時のコミュニケについて、唯一の合法政府について「recognize」という言葉を使い、不可分の領土についての「acknowledge」という言葉は承知しているというニュアンスだとしている。


日本の安全保障政策を転換させた2015年の安全保障関連法は日本が直接攻撃を受けなくても密接な関係にある国が攻撃され、日本の存立が脅かされる存立危機事態と政府が認定すれば自衛隊の集団的自衛権を行使できるとした。

「国」ではない台湾への自衛隊出動は現行法上、米国などの関係密接国が参戦しない場合は不可能だ。にもかかわらず、首相は米軍介入という不確かな想定に立って有事に言及、台湾側を不安にさせただけでなく、過度の期待までも持たせてしまったかもしれない。

自民党内で親台湾派といわれる首相はどこまで台湾のことを真摯に考えているのだろうか。



台湾有事は台湾とそこに暮らす人たちを抜きにして周囲が独り歩きさせているという思いは強い。
台湾の人たちは机上ではなく明日かもしれない現実の有事に備えざるを得ない生活を送っている。政府もまた迎撃能力を備えた防空システムの構築など防衛力の強化に努める。
ただ、人々は備えは備えとして、平穏に毎日が過ぎていくことを願っている。
なによりも現在の平和が続くことを祈っている。(『アジア新風土記2135』参照)

アジアで最も民主化が進んでいるともいわれる台湾社会の「存続」をどのように推し進めていくのか。日本がすべきことは徒に危機感を煽るような発言、言動ではなく、有事のような状況に陥らないためのあらゆる外交努力を重ねていくことにある。

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