「皇室典範」の改定と 「国民統合の象徴」(憲法第一条)の行方



◆高市首相の主導による「皇室典範」改定

 本年7月、皇室典範を改定する法案が、それこそアッという間に成立した。法案の提案から成立までを先頭に立って主導したのは、高市早苗首相である。そのことを、首相は4月の自民党大会でみずから公言している。この「宣言」を、私はテレビで視聴した(6・14,TBSサンデーモーニング)。以下に、それを書きとった文言を紹介する。

 

「わたくしは、126代にわたって男系男子で皇統が継承されてきたという、世界でも比類のない歴史的事実こそが、天皇の権威と正統性の源(みなもと)と考えています。皇統に属する男系男子を皇族とする案を、第一優先として、国会における議論を主導していきます。」 

 

 言外に、「女性・女系」の天皇などは断じて許さない、どんなことがあろうと皇統につながりのある「男系男子」を天皇の座にすえるのだという「信念」が述べられている。この断言により、今世紀に入ってからでもおよそ20年、歴代政府の懸案となっていた「皇位継承問題」が、高市首相により一挙に「結着」をつけられることになったのである。

 

 では、ここに述べられている「皇統に属する男系男子」とはどういう人たちを指すのだろうか。該当者としてメディアでも紹介されたのが、「旧宮家」に属する11人の男性たちだった。「旧宮家」とは第二次世界大戦での敗戦によって「天皇制国家」が崩壊したその直後まで、「皇族」として遇されていた家柄をさす。しかし戦後の改革により、昭和天皇の兄弟であった秩父宮、高松宮、三笠宮の3宮家をのぞいて「皇族」から離脱、一般国民となった。

 以後80年、「旧宮家」の殆どの人たちは一般人として生まれ、育ち、生きてきたのであるが、高市首相はその中の「配偶者と子どもがいない15歳以上の男性」11人を「皇統に属する男系男子」と見て、うち適任者を「養子」として皇族に迎え入れ、その「養子」が結婚して男児が出生したら、その「男児」を皇位継承権者とする、としたのである。

 

 以上のことについて世論調査では、賛成が51%、反対が39%だった(共同通信社、7月25、26日実施)。賛成が相当に多いのは、おそらく設問の「意味」がよく分からなかったからに違いない。なぜなら、同じ調査で「女性天皇を認めるか」については81%が賛成しているからである。女性天皇を認めるなら、それを否定するのと同じ意味の「男系男子に限定した養子縁組」に賛同できるはずはないからだ。

 とにかく国民への十分な説明もなく、国会でのまともな論議もなく、全13党派中6党派による異見を切り捨て、衆参両院の正副議長の名による「立法府の総意」を振りかざして、高市自民党と維新の会は皇室典範の「改正」を成立させてしまったのである。

 


 ◆「宮家」の由来と「旧宮家」の来歴

 ところで宮家、とくに「旧宮家」とはどういう由来をもつ家柄なのであろうか。メディアを通しての説明も十分でなく、私も胸中なにかわだかまる思いが解けなかったので、日本歴史大事典を主に参考にして、自分なりに少し調べてみた。以下はその報告である。

 

 まず「宮家」であるが、江戸時代までは4つの宮家があった。

 最初につくられたのが伏見宮家(ふしみのみやけ)で、足利尊氏らが活動した南北朝時代、北朝の崇光(すこう)天皇(1348~1351年)の第一皇子・栄仁(よしひと)親王を初代として創立された。

 次が桂宮家(かつらのみやけ)で、1589年、正親町(おうぎまち)天皇の孫・智仁(としひと)親王を祖として豊臣秀吉の奏請により創立された。

 第三が有栖川宮家(ありすがわのみやけ)で、江戸時代に入った1625年、後陽成(ごようぜい)天皇の第七皇子・好仁(よしひと)親王により創立された。第9代の有栖川熾仁(たるひと)親王は明治維新で活躍する。

 最後が閑院宮家(かんいんのみやけ)で、江戸時代中期の1710年、儒学者で幕府の政治にもかかわった新井白石の提言で、東山天皇の第八皇子・直仁(なおひと)親王により創立された。その後、天皇家で後桃園(ごももぞの)天皇が夭折、残されたのが生後まもない女児だけだったので、閑院宮家の初代から数えて第3代の8歳の男の子が天皇家に養子として迎え入れられた。これが光格(こうかく)天皇(1779~1817)で、そのあと仁孝(にんこう)天皇、孝明天皇と続いて1867年、明治天皇の登場となる。以後、現在の天皇まで、皇統はこの閑院宮の系統で引き継がれている。

 

 このように「宮家」はすべて天皇の皇子=親王によって創立されたので、「親王家」とも称されるが、実際に天皇を送り出した(伏見宮家、閑院宮家)ことからも分かるように、天皇家の相続=皇位継承のために設けられたのが宮家である。

徳川将軍家の血筋を守るために設置された御三家(尾張・紀州・水戸)と、御三卿(田安・一橋・清水)も同じ役割が課せられていた。よく知られているように、第14代将軍・家茂(いえもち)は紀州徳川家から、最後の第15代将軍・慶喜(よしのぶ)は一橋家から出て将軍職を継いだ。

 

しかし、いま見てきたように長期にわたって血統を保持しつづけることは至難の事業である。実際、先述の4家のうち現在の皇室の系統である閑院宮家は別として、残る3家も伏見宮家をのぞく2家(桂宮家、有栖川宮家)は、明治から大正にかけ後継者を欠き途絶えてしまう。

そこで明治期に入り、皇統を維持するため、持続し得た伏見宮家の系統に属する子息たちに、新たに「宮家」を創設させた。その新宮家の子息たちがさらに「宮家」を創立して、その数は11宮家(51人)にまで達したが、敗戦の大変動を機に皇族から離脱した。それをいま「旧宮家」と称しているのである。

 そしてその11宮家のうち4宮家(賀陽宮家、東久邇宮家、久邇宮家、竹田宮家)の中の「配偶者と子どもがいない15歳以上の男性」11人を「皇統に属する男系男子」と指定し、皇位継承の候補者としたわけである。「指定された」人たち、及びその親族の人たちがこのような「指定」をどんな思いで受けとめるか、「男系男子による皇位継承」しか眼中にない高市首相は、想像もしなかったのだろう。


 

 ところで、この「養子案」が成立したとして、その「血統=血のつながり」はどの程度と見られるのだろうか。先ほど見たように「旧宮家」はすべて伏見宮家から始まっている。その発祥の宮家=伏見宮家の創設は1350年前後、つまり今から約670年以上も前のことになる。宮内庁によると、初代から数えて現在の旧宮家の人たちは、およそ36親等から38親等に当たるという。ではこれを「血筋」で見るとどうなるか。

 一般論として、人は両親から等分に「血(遺伝子)」を受け継ぐから、初代から数えるとその子(1親等)の「血」は2分の1、その子(孫)は4分の1、ひ孫(曾孫)は8分の1、やしゃご(玄孫)は16分の1となり、以下10代となると「血(遺伝子)」は実に512分の1にまで希釈される。

 ついでに計算すると、20代(19親等)ではそれは52万4288分の1となり、29代で1億分の1以下となって、36から38親等となると、数百億分の1となる。

 「皇統」とは、「天皇家の血統」を意味するが、生理学的に見れば、これが高市首相が主導して成立させた新皇室典範における「皇統に属する男系男子」の「血統」の事実である。

この事実を、高市首相が知っていたか、それとも知らなかったのか、それは分からないが、とにかく「男系男子で皇統が継承されてきたという、世界でも比類のない歴史的事実こそが、天皇の権威と正統性の源」なのだと呼号して、今回の法改正は実現されたのである。

今回の皇室典範の改定について、朝日新聞社の全国世論調査では(7月18~19日実施)、「国民の理解が得られている」のは24%で、「得られていないの」が60%だったが、これを女性だけに限ると「得られていない」は67%に及んだ(「得られている」は17%)。女性の圧倒的多数(4人のうち3人)が、女性天皇を否認して皇位継承を「男系男子」に限定した今回の改定に反対だったのである。その怒りをぶちまけるように歌っていたのが、「朝日歌壇」(同紙8月2日)に掲載された次の短歌だった。

「女たちの頭をバチで打つように毎日毎日ダンケイダンシ」(塚本恭子)



 

◆明治憲法「万世一系の天皇」が創り出されるまで

以上、述べてきたように、皇位継承を永続することは容易なことではない。たとえば明治天皇の場合も、側室との間に5人の男子が生まれたが、成長できたのはのちの大正天皇ひとりだけだった。古代から近代までは側室制度が存在したが、それでも皇位継承者を確保するのは容易なことではなかったのである。まして現代では、文明社会全体を通して側室制度は認められない。

要するに、現代の婚姻制度のもとでの「血統」による皇位の世襲は、いずれ「終焉の時」を迎えざるを得ない、ということである。

では、血統による皇位が絶えた後、日本国民は何をもって「国民統合の象徴」(憲法第一条)とすればいいのだろうか? 

その問題を、次に考えてみたいと思うが、この問題について考えるには、どうしても近代天皇制のなりたちの核心部分について振り返らないわけにはいかない。したがって、以下の叙述はいささか長丁場になる。



さて、高市首相は「126代にわたり男系男子により受け継がれてきた皇統」と言ったが、そのことを法的に宣明したのが明治憲法(大日本帝国憲法)であった。「第一条 大日本帝国は 万世一系の天皇 之(これ)を統治す」「第二条 皇位は、皇室典範の定る所に依り、皇男子孫 之を継承す」である。1889(明治22)年に制定されたこの憲法の作成・成立を主導したのが、伊藤博文だった。

伊藤は、それまで自由民権運動の風に乗って全国の自覚的知識層を巻き込んだ自主憲法の研究・学習・起草運動を、1881年の「明治14年の政変」における、9年後の国会開設の約束と引きかえに今後は憲法についての論議はいっさい厳禁するという詔勅(天皇の命令)をもって制圧すると、翌82年、みずからヨーロッパに「留学」し、主にはオーストリアで憲法学の教授について1年半にわたり憲法の研究に従事する。

帰国後の84年、伊藤は「憲法案起草」および「政治制度改革(近代化)」のスタッフとして、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎を起用、翌85年には古代律令制以来の「太政官制」を廃止して、現代にまでつづく「内閣制」に切り替え、みずから初代の内閣総理大臣に就任する。

翌86年、上記の側近3名とともに憲法、皇室典範、国会開設のための議員選挙法等の具体的検討に着手、翌87年、横浜市南部の離島・夏島に新築した伊藤自身の別荘で極秘裏に最初の憲法草案を作成(夏島草案)、次いで東京・高輪の伊藤の自宅でその草案に手を入れ(10月草案)、翌88年に最終案(2月草案)を完成させると、その憲法草案を審議し確定するために、新たに維新の功労者たち15名をメンバーとする「枢密院」を創設、伊藤は総理をやめて(後任は黒田清隆)その枢密院の「議長」に就任、起草スタッフの3名はその書記官の位置に就いたのだった。


 

◆伊藤博文による「天皇は日本国家の〝機軸〟」論

5月に開院した枢密院での審議(明治天皇も欠かさず出席、傍聴した)は、まず皇室典範から始まり、翌6月に憲法草案の審議に移った。その審議開始に当たって、議長の伊藤は長くかつ重要な演説を行なった。その概要を、私の近著、『天皇制国家はいかにして創られたか』(高文研)から引用する。


――「憲法政治は欧州諸国に於いてはずっと以前から行なわれてきたが、それが出来たのは、民心に深く浸潤してそれを憲法に帰一させる『機軸』が存在したからである。その『機軸』とは何か。キリスト教にほかならない。ところがわが国には、そうした人心を帰一させ得る宗教はない。仏教があり、神道もあるが、いずれも国民大多数の心を引きつけて一つにするような『機軸』にはなり得ない。わが国で『機軸』となり得るのは、皇室のみである。よって、今回の憲法草案は、皇室=君権を『機軸』として、ひとえにそれを毀損せず、あわせて人民の権利にも配慮し、『君民権』を共有することをめざして起草したものである。」

 

こうして上記の憲法第一条「大日本帝国は 万世一系の天皇 之(これ)を統治す」が定められたのであるが、伊藤がここで使っている用語「機軸」は、広辞苑ではその語意は「車輪や機関の軸」となっており、現代の私たちにはピンとこない。そこで私は、それを「軸心」の語に置き換えてはどうかと先の本で提案した。「軸心」は自転車の車輪でスポークの先端を集中させたところ(こしき、というらしい)で、英語では「ハブ」(ハブ空港のハブ)である。

 

しかし「機軸」といい、またそれを「軸心」と言いかえても、伊藤のこの論理には無理がある。なぜなら、伊藤が引例したキリスト教の場合は数百年にわたる信仰によって、それが人々の心中に内面化されて「憲法に帰一」したのかもしれないが、日本の場合は、一般人民はわずか20年前の江戸時代までは、天皇(皇室)の存在そのものを知らなかったからである。

(江戸時代、天皇=朝廷は幕府によって厳重に監視・統制され、天皇自身は二百数十年にわたって御所(皇居)から一歩も外に出ることができなかった。そのため民衆にとっては、天皇は現実の存在ではなく、伝説の中の人物とも見られていたようである。歴史家・吉田孝氏の『歴史のなかの天皇』(岩波新書)にはこう書かれている。――「中世の能の天皇はおもに子役が演じたが、近世の歌舞伎の天皇は、しばしば道化方によって演ぜられ、とくに江戸では民衆の笑いの対象になった。」二百数十年ものあいだ御所の奥深くに住んで、人民の目から遮断されていた天皇は、もはや架空の存在だったのである。)

 

したがって、「徳川将軍に対抗し得る」律令制時代以来の伝統的権威としての天皇(王)を頭上にかざしての「王政復古」により、政治的実権を奪取した維新政府は、まずもって中央集権の近代的統一国家の頂点に立つ至高の存在、権威のシンボルとして「天子様」が存在することを広く民衆に知らせることが必要だった。そのためその由来と尊さを教え込むための「人民告諭」を全国各地で公布し、さらにその「天子様」の実在を目で見て確認させるために、大行列を組んで鹿児島から北海道まで、13年間にわたり6回にも及ぶ「全国巡幸」の大プロジェクトを展開したのである。

その最後の「巡幸」を終えたのが1885(明治18)年で、伊藤が枢密院での憲法草案の審議にあたって行なった演説のつい3年前のことであった。したがって、伊藤が「人心を帰一させる」ための「機軸」として示した皇室(天皇)は、この段階ではまだ「人心帰一」のための「高貴な」器(うつわ)に過ぎず、中に一般民衆を自らひれ伏させるだけの「権威の実体」はまだ込められてなかったのである。

 


◆天皇を「神棚」に押し上げた教育勅語と日清戦争

その器(うつわ)を満たすための政治的作為は、早くも憲法発布の翌1890(明治23)年に着手される。明治天皇の名による「教育勅語」の公布である。

教育勅語の前半は、徳目の羅列である。すなわち、親に孝行し、兄弟は仲良く、夫婦はむつまじく、友達とは信頼しあい……と説いていって、後半に移ったところで一転してこう説く。

「いったん緩急あれば、義勇公に奉じ、もって天壌無窮の皇運を扶翼すべし。」

意訳すれば、いったん戦争になったら武器を取って国のために戦い、それにより天皇家の幸運が天地とともに永遠に続くように尽力しなければならない」というのである。

天皇制道徳ともいえるものが、ここに凝縮して詰め込まれている。文部省はこの「勅語」の謄本3万枚を全小学校・中等学校に「下付」、国の祝日(元日、紀元節、天長節)には校長が式典でおごそかに読み上げた。その式典の様子を、朝日新聞記者だった生方(うぶかた)敏郎氏が『明治大正見聞記』(中公文庫)でこう書いている。

「祝日の式を開く初めに、校長はうやうやしく勅語を朗読するのが例になった。……若い校長は勅語を読むのがお上手だった。……勅語をいかにも勅語らしく読んで、聴衆に多大の感動を与えた。」
「広い式場の正面にはご真影(天皇の写真)を飾り、両側には郡長、判事、税務署長、警察署長、町長、学務員、町会議員等が威儀を正して押し並ぶ。」
「私たちはいつしか教育勅語を暗記し、どこでも暗誦できるようになった。おぼろげながらその意味も分かった。」

生方氏は1882(明治15)年の生まれだから、ここに描かれた情景は同氏の10歳前後、1892(明治25)年ごろのことと思われる。勅語の公布からまだ2、3年しかたっていないが、関東の一地方、群馬県で、早くもこういう事態がつくり出されていたのである。政府が、教育勅語の精神「天皇制道徳」の普及・注入に全組織をあげてとりくんでいたことがわかる。

 

教育勅語の「核心」が天皇=国家への忠誠・献身であったことは先に述べた。天皇を「軸心」とするナショナリズムである。そのナショナリズムを爆発的に燃え上がらせたのが、教育勅語公布からわずか4年後の1894(明治27)年7月に日本政府・軍が朝鮮王宮の占領によって開始した大国・清国との戦争「日清戦争」だった。

その情報に接しての人々の熱狂ぶりを、再度、生方氏の著書から引用させていただくと――

「平壌は難攻不落という評判であった。日本軍はなかなかこれを陥せまいという話だった。ところが……我軍は一蹴して平壌を屠(ほふ)ってしまったので、むしろあっけない位だったが、その時の国民の悦びは全く有頂天という言葉に相当していた。」
「私の地方の町では、まだそのころ電話はなく……捷報(しょうほう)は新聞より先にまず警察へ来た。警察でそれを門前の掲示板へ書き出すので、私たち子供は一日の中に何度も警察の門前まで見に行った。」
「この平壌の陥落した捷報を得た時くらい人々の悦んだ時はなかろう。仕事をしていた男は仕事を止めて悦んだ。掃除をしていた女は箒(ほうき)投げ出して悦んだ。子供は絶叫した。女や老人は涙をこぼした。」

 

この日清戦争に、政府・軍・国会は総力をあげてのぞんだ。戦争遂行の最高指導本部である「大本営」を、政府・軍は東京から広島に移し、衆議院も議場を広島に移して「臨時軍事費特別会計」を満場一致で可決した。移転先が広島だったのは、鉄道の敷設がそこまでだったからであり、そこはまた朝鮮半島と大陸への出撃基地となった。

明治天皇は94年9月、名古屋、神戸で一泊して広島大本営に到着した。大本営は広島城跡の木造二階建てに設置されていたが、天皇はその一角の部屋で、軍服姿で政策の裁可や大本営会議への出席など日々の仕事に従事し、食事・睡眠もそこでとった。寒い冬にも戦地の兵士たちを想って暖炉を使わず、若いころから欠かさなかった乗馬も控えた。

日清戦争は1895(明治28)年2月、清国・北洋艦隊の降伏で終わり、4月、日本の首相・伊藤博文と清国代表・李鴻章による日清講和条約の調印で終わった。この条約で、日本は莫大な賠償金とあわせ、「台湾」を新たな領土として獲得した。

 

◆明治天皇の「偉業」に感極まった福沢諭吉

このあと5月30日、明治天皇は広島から東京に帰還する。その日、福沢諭吉は自分の経営する時事新報の社説にこう書いた(一部、漢字をひらがな現代仮名遣いに変更)。

「本日の御還幸につきいささか奉迎の辞を述べんとするに当り、我輩はただ感激の情に迫りて殆んど言うところを知らざるものなり。」
「謹んで案ずるに(思うに)今上(きんじょう)皇帝の御功業は実に日本開闢(かいびゃく)いらい前後無比の御偉業にして、二千五百年間の歴史にその例を見るべからず。親しく王政維新の改革を御決断あらせられ、また憲法を発布して立憲政体を行なわせられたる如き、従来の御大業は今さら賛し奉るまでもなし。」

こう書いて、最後をこう締めくくった。

「実に今上(きんじょう)陛下の御功業は神武天皇以後、絶えて見るべからざる中興の御成業として仰ぎ奉るべきのみならず、これを世界古今に求むるも、僅々(きんきん)三十年間の御治世に於いてかくの如き非常絶大の大偉蹟を収めさせたる例はあるべからず。われわれ日本臣民は何の幸いぞ、生まれてこの盛世(せいせい)に逢い、眼前にこの盛事(せいじ)を見る。ただこの上は、ひたすら聖寿の万々歳を祈り奉るのみ。」

 

文中に、「日本開闢いらい」や「二千五百年間の歴史」、「神武天皇以後」といった語句が見られる。本稿の冒頭で紹介した高市首相の演説を連想させる語句である。

冒頭から「感極まって何と言っていいかわからない」と述べている通り、「非常絶大の大偉蹟」など最大級の賛辞を並べて明治天皇をたたえている。その「偉業」には、今回の日清戦争での勝利だけでなく、「王政維新の改革を御決断あらせられ、また憲法を発布して立憲政体を行なわせられたる如き」と明治維新以降の近代化の歩みも含まれている。

つまり福沢は、自分もともに生きてきた幕末から維新をへて中国との戦争で勝利を得た今日までのこの国の歩みをまるごと肯定し、賛美しているのである。合わせてその歓喜の心情は、「われわれ日本臣民の幸い」とあるように、先に生方(うぶかた)氏の回想記で見た民衆の手放しの喜びとまったく同じと見てよい。

日清戦争は、近代日本が行なった最初の本格的対外戦争であるが、王政復古からまだ30年たらずしかたっていないのに、早くも天皇崇拝・賛美と民衆(国民)の国家との一体化、すなわち「忠君愛国」の思想はこの段階でほぼ完成されたのである。

 

◆戦争の時代の「奉安殿」と教育勅語奉読

日清戦争以後、日本は日露戦争(1904~5)、第一次世界大戦(1914~18)、山東出兵(1927)と、ほぼ10年おきに戦争を重ねてゆく。そのあとは中国の軍閥・張作霖の爆殺(1928)から満州事変(1931)へと一挙に加速し、あとはそのまま中国との全面戦争(1937~)、米英との戦争(1941~)に突入して、45年8月、全国の殆んどの都市が米軍機による空爆で廃墟と化した中で「敗戦」を迎える。

 

その戦争に次ぐ戦争の時代、約50年の間に、天皇の神格化は主に学校教育を通して浸透し、とくに昭和に入るとマスコミ(新聞、雑誌、演芸、歌謡など)による洗脳も加わって、殆んど「宗教化」する。それを象徴したのが、全国の小学校の多くは校門の近くに建てられた「奉安殿(ほうあんでん)」である。

それは小さな社(やしろ)をかたどった建物で、中には文部省から下付された天皇の「ご真影」と「教育勅語」の謄本が収められていた。つまり、ご真影と教育勅語が「ご神体」というわけである。したがって、子供たちは登下校のたびにその「やしろ」に向かって最敬礼をしなければならなかった。それを怠ると、教師から時に暴力的な罰を受けなくてはならなかった。

紀元節(今の建国記念の日)や天長節(天皇誕生日)、明治節(明治天皇の誕生日、現在の文化の日)には教頭先生が白手袋をはめてその二つをささげ持ち、講堂まで運んでくると、校長先生が壇上に立ち、ことさら荘重な声で教育勅語を読み上げる。

その間、およそ10分間、児童は直立不動で頭を垂れたまま、その勅語を拝聴しなくてはならない。頭を垂れたままの10分間はつらい。いや応なく鼻水が垂れてくるが、それをすすって音を立てることは許されない。したがって、勅語が終り、「なおれ」の号令とともに、ズズズズーッと、鼻水をすすり上げる音が会場全体に響きわたるのが通例だった。同じ情景は、小学校だけでなく全国の中等学校でもひとしく見られた。

 

教育勅語をめぐるこの「難行苦行の10分間」は、まさしく魔の時間だった。それで子供たちは〝戯れ言(ざれごと)〟でそのウップンを晴らした。この〝戯れごと〟は全国の子供が口にしていたらしい。そのことは、私がいくつかの異なる地方で子供時代を過ごした同世代の友人たちに尋ねて確認した。九州北端の町で育った私が覚えているのは、次のような〝戯れごと〟である。(注=教育勅語は、「朕(ちん)おもふに」と始まり、本文の徳目の列挙に移って「爾(なんじ)臣民、父母に孝に」と続き、最後は天皇の「庶幾(こいねがふ)」で終わる。〝戯れごと〟はこの最初と途中、最後の語句を使っていた。)

――「チン、オモワズ屁ヲフッタ、ナンジシンミン、臭カロウ、イットキノガマン、コイネゴウ。」

いかにもガキっぽい、たわいない戯れごとだったが、これが子供たちの「苦しい10分間」に対するせめてものウップン晴らしだったのである。なお、教育勅語全文は小4の国定教科書「初等科終身2」巻頭に見開き2ページを使って掲載されており、4年生になるとこの全文を暗誦させられた。

 

◆「忠君なくして愛国なし、愛国なくして忠君なし」

以上みてきたように、王政復古から1945年までの「大日本帝国の時代」を通じて形成されてきたのは、天皇崇拝を「軸心」とする国民の国家との一体化、すなわち「忠臣愛国」の思想だった。そのことを最高度に凝縮して述べた文章がある。盧溝橋事件の4カ月前、1937年3月に文部省による著作・発行で全国の中等学校生徒に課された「修身」の教科書、『国体の本義』の中の一節である。

――「天皇に忠を尽くし奉ることは、即ち国を愛し、国の隆昌を図ることにほかならぬ。忠君なくして愛国はなく、愛国なくして忠君はない。」
――「実に忠君は我が臣民の根本の道であり、我が国民道徳の基本である。我らは、忠によって日本臣民となり、忠に於いて生命を得、ここにすべての道徳の根源を見出す。」




とくに1920年代の後半(昭和の初め)から30年代(昭和10年代)にかけて生まれた世代は、教育とマスコミによる洗脳によって「忠君愛国」の思想で「純粋培養」され、天皇と国家のために命をささげて悔いない「軍国少年」「軍国少女」となった。

若い世代だけでなく大人の世代も、「天皇と国のため」がその「道徳の根源」となった。「忠君愛国」が「日本臣民」であることの「しるし」となった。

 

◆昭和天皇を「民主化のリーダー」へ一転させた「人間宣言」

しかし、1945年8月15日、日本国民は自国の敗戦を天皇の肉声の放送(玉音放送)によって知らされた。間を置かず、日本は連合国軍(実体は米国軍)の占領下に入る。占領軍の最高司令官マッカーサーは、その円滑な占領行政のために、日本軍700万の将兵をひと言で武装解除させる「神的権威」をそなえた天皇を最大限に利用する。

その天皇が敗戦の日からまだ1カ月半の9月末、皇居を出て自らすすんでアメリカ大使館へマッカーサーを訪ねた。両者はツーショット写真に収まると、以後「肝胆相照らす」間柄となり、そのあと何度も会見を重ねた。

翌46年元日の新聞に、昭和天皇による画期的な声明が掲載される。世にいう「人間宣言」、正確には天皇自身による「神格の否定」(自分は神ではない)である。この声明文を作ったのは日米共同のスタッフであるが、天皇はその冒頭に「五カ条の誓文」を付け加えることを要求した。「五カ条の誓文」は「君主の宣言」であるが、冒頭で「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と、議会制による民主政への道も指し示している。

この声明に対し、米国のメディアは好意的な反応を示したが、中でもマッカーサー司令官はこう絶賛した。――「天皇の新年の声明は、余の非常に欣快とするところである。天皇は、その詔書に声明せるところにより、日本国民の民主化に指導的役割を果たさんとしている」(朝日新聞1月3日付)。

この1月下旬、それまで米英豪の諸国でくすぶっていた「天皇戦犯追及論」も、マッカーサーによる天皇擁護――天皇の存在を欠いては円滑な占領行政の遂行は不可能だという決然たる意志表明によって立ち消え、このあと開かれる(5月)東京裁判での天皇の「不起訴」が実質的に決まる。

それを見とどけた後、昭和天皇は敗戦からまだ半年しかたっていない2月19日、空襲で廃墟となった川崎、横浜を皮切りに全国巡幸を開始する。そのとき、天皇の胸中にあったのは何か。明治天皇による「全国巡幸」だったにちがいないと私は推考する。

明治維新当時、この国の民衆にとって全く未知であった天皇(天子様)の存在をその目で確認させるために、明治天皇は1872(明治5)年から14年をかけて全国を巡幸した。それから半世紀余、歴史の大転換をへて大元帥服を脱いで背広に着替えた昭和天皇は、祖父の明治天皇にならい、「神」から「人間」に変わった新しい姿を全国民にその目で確かめさせるために、1946年から54年まで9年をかけて、沖縄県を除く全都道府県を巡幸したのである。

 

◆日本戦後史の‷最大の難問〟

その全国巡幸において、昭和天皇は訪れたどこでも国民の熱狂的な歓迎を受けた。その一例として、46年11月3日(明治天皇誕生日)、皇居前広場で行なわれた「新憲法公布祝賀大会」に10万人が集まったさいの新聞記事を紹介する。

「澄み切った秋の大気をふるわせて厳かに湧き起こる君が代の前奏、そして十万参会者の唱和、二時三十四分、天皇、皇后両陛下のご出席である。ソフトにモーニング姿の天皇陛下、宮中服の皇后陛下が正面マイクの前に立たせられたとき、参会者はついに総立ちとなって式台に殺到、そのもみくちゃとなった会場から万歳が沸き起こる。」
(朝日新聞46年11月4日付)。

写真には「祝賀大会の都民に埋(うず)まった陛下」の説明がついている。たしかにこの時、天皇の姿は人々の熱狂の渦の中に埋まったように見えたのだろう。

 

では、天皇は、訪れた土地のすべてで、どうしてこのような熱狂的な国民の歓迎を受けたのだろうか。

天皇は大日本帝国憲法において、「第三条 天皇は、国の元首にして統治権を総攬し(一手に掌握し)」「第十一条 天皇は、陸海軍を統帥す」とされていた通り、国家の最高権力者であり、国軍の最高統率者であった。したがって、アジア太平洋戦争(第二次大戦)においても、天皇は、陸軍の作戦計画のトップ・参謀総長と海軍の作戦計画のトップ・軍令部総長によって連日のように作戦遂行と戦況の報告を聞いたし、重要作戦の実施に当たっては天皇による「裁可」が不可欠だった。

その天皇を頂点とする日本軍部による戦争指導の結果、日本は惨敗をきっした。海外に設けていた軍事基地は米軍の反攻で残らず攻略され、日本はいわばまる裸状態となって、米国が開発した重爆撃機B29により、実に8カ月間にわたって空襲にさらされた。その結果、全国の大・中都市のすべてが破壊・焼却され、廃墟と化した。

国民の多くが家を焼かれ、肉親を失った。軍隊へ送り出した父や夫が、その生死さえわからぬまま消息を絶っていた家も多かった。北方や南方の旧植民地にいた人々は着の身着のままで引き揚げてきた。戦災をこうむった人たちともども、明日からどうやって生きてゆくのか、手さぐりのその日暮らしを続ける羽目となった。

日本国は窮乏のどん底であえいでいた。しかもその国は、連合軍の占領下にあった。背が高く陽気な占領軍(当時は進駐軍と呼んだ)は窓のない機能的な小型車、ジープに乗って街の中を疾駆した。そのジープを追って、もう何年も甘いものを口にしていない子供たちは口々に叫んだ。「ギブミー、チョコレート!」

 

以上の経過から浮かんでくるのは何か。自分たち全国民を不幸のどん底に突き落とした「戦争」に対するうらみ(恨み・怨み)であろう。

では、その「戦争」を仕掛け、遂行したのはだれか。日本軍の上層部=軍部であろう。満州事変も、それに続く日中全面戦争も、またその日中戦争の泥沼化から脱するために米英蘭の植民地だった東南アジアに侵攻したのも、すべて軍部の方針だった。

では、その軍部の頂点にあって、参謀総長と軍令部総長による作戦計画に耳を傾け、最終決定を「裁可」したのは、だれであったか。昭和天皇だったのではないか。

それなのに日本国民は、敗戦からまだいくらもたっていないのに、天皇を恨むどころか、その姿をひとめ見ようとこぞって駆けつけ、歓迎したのである。怨嗟の声どころか、歓呼の声を上げたのである。

この現象を、どう考えたらよいのか。論理的には説明のつかないこの現象は、天皇制を考える上でも、またこの国の近現代史認識を問う上でも、最大の問題の一つだと言ってもよいと私は考える。しかし、戦後すでに81年がたつが、この問題(謎)について納得のいく説明を、私はいまだ聞いていないし、読んでもいない。

以下に述べるのは、私なりの解釈(仮説)である。

 

◆「亡国の民」にとっての「国民的アイデンティティーの拠りどころ」

先に、文部省『国体の本義』の一節を紹介した。

「天皇に忠を尽くし奉ることは、即ち国を愛し、国の隆昌を図ることにほかならぬ。忠君なくして愛国はなく、愛国なくして忠君はない。」

次いで『本義』は、これこそが「我が国民道徳の基本である。我らは、忠によって日本臣民となり、忠に於いて生命を得、ここにすべての道徳の根源を見出す。」と断定していた。

この『国体の本義』は、中等学校の生徒に向けての必修教科書だった。こういう「国民道徳」(国民としての生き方)をたたき込まれた青少年が「軍国少年」「軍国少女」に育ったのは見やすい道理である。しかし、世の中を知った大人たちまでが、「忠君なくして愛国はなく、愛国なくして忠君はない」と頭から信じ込んでいただろうか。人間社会の複雑さ、多様さを考えれば、とてもそうは思えないだろう。

しかし顧(かえり)みれば、明治中期の日清戦争での勝利でナショナリズムに沸き立って以来、戦争のたびごとに領土を広げ、国力(軍事力)をたくわえて、東亜の小国からついに世界の「一等国」へと上りつめた大日本帝国、その帝国の頂点に立つ「現人神(あらひとがみ)」の「ご真影」を客間にかかげて朝夕拝礼し、折りにふれて「天皇陛下万歳!」を三唱した国民にとって、その日本国民としての自覚(自負)の基底には、「自国は天皇の国」という認識が深く根付いていたのではないだろうか。つまり、日本国民の内面においては、「天皇」と「国家」は一体となって結びついていたのである。言いかえれば、「天皇なくして国家なし」だったのである。

ところがその「大日本帝国」が瓦解した。B29の大空襲を受けながらも、それでも最後は「神風が吹く」と信じていたのに、ついに神風は吹かなかった。家を焼かれ、見渡す限りの焼け野原の中で、飢餓線上をさまよっていた当時の人々は、まさしく「亡国の民」となった自らを深く実感させられていたにちがいない。

「国民としての自己認識」を、私なりに言いかえると「国民としてのアイデンティティー」である。つまり、「自分は日本国民である」と言い切れる自己認識が「国民としてのアイデンティティー」であり、海外ではそれは「パスポート」によって証明され、外国での事故や災害に際しては大使館や領事館が真っ先にその安否を確認し、メディアもそれを報道する。

茫然自失して焦土に立ちつくす敗戦後の日本国民は、まさしく「亡国の民」であった。つまり「国民としてのアイデンティティー」を失っていた。

しかしその「アイデンティティー喪失」のなかにあって、まだひとつ残っていたものがあった。「天皇と国家」のうち、国の姿は失われたが、「天皇」はまだ存在し続けていたのである。「玉音放送」とメディアによる報道、元日の「神格否定」の声明によって、人々は天皇が存在し続けていることを知った。日本国軍は崩壊し、「大元帥・天皇」は消えてしまったが、「人間・天皇」はまだ存在していたのである。

連合国軍による被占領国となって、日本の国家としてのありようは根底から変改させられた。しかし天皇だけは、マッカーサーの占領政策方針によって、存在し続けることになった。人々の実感としては「亡国の民」だったが、完全な「亡国」ではなかった。日本にはまだ「天皇」がいたのだ。その自覚から、天皇は人々の「日本国民としてのアイデンティティーの拠(よ)りどころ」となった。

 

◆問われなかった「国民統合の象徴」としての天皇の役割

1945年8月の敗戦から半年、翌46年2月、昭和天皇は自ら皇居を出て人々の前にその姿を見せた。天皇はこれまでの44年の半生において、一般国民と同じ立場で向かい合い、対話したことはなかった。したがってその態度や物言いはぎこちなくならざるを得なかったが、それでも自らすすんで民衆の中に分け入っていったのは、自分が「国民のアイデンティティーの拠りどころ」となっていることを、これまでの臣下の振る舞いやメディアの報道の仕方を通じて知っていたからであろう。

果たせるかな、天皇の来訪を知ると、人々は自分たちの「国民的アイデンティティーの拠りどころ」をひと目みて確認したいと、行く先々で天皇を迎え、歓声をあげて押し寄せてきたのだった。翌47年12月には、昭和天皇は広島を訪問した。まだピカドンによる破壊の跡も生々しい公園の広場が、見渡す限りの人々で埋めつくされた。その大群衆に向かって、天皇が帽子を上げてこたえている情景は、NHK のドキュメンタリー番組「映像の世紀」の「昭和天皇・後編」でも放送された(2026年4月6日)。

 

これより先、敗戦の年の12月、衆議院議員選挙法改正が公布され(女性の参政権承認)、翌46年4月、総選挙(女性議員39人が当選)、次いで政府による憲法改正草案発表、5月から国会での憲法改正案審議が始まった。その審議の中で、国体(『国体の本義』の国体である)の存否が論争になったとき、憲法担当の大臣・金森徳次郎はこう答弁した。

国体つまり天皇制国家については、「いわば憧れ(あこがれ)の中心としつつ国民が統合しているというところに根底があると考えられます。」

私のいう「国民のアイデンティティーの拠りどころ」を、金森は情緒的表現として「国民のあこがれの中心」と言ったのである。当たらずといえども遠からず、というところだろうか。

しかし昭和天皇の背後には、戦争国家の黒い影が貼りついていた。天皇が、満州事変から足かけ15年にわたる戦争の最高指導者であり(だから兵士が敵弾に当たって倒れるさいは「天皇陛下万歳」と叫ぶのだと教えられていた)、その指導の結果、それこそ建国いらいの大惨事を招いた歴史的事実は、打ち消しようもなかったからである。

 

1947年5月3日に施行された日本国憲法の第1条で、天皇は「日本国民統合の象徴」と規定された。では「国民統合の象徴」とは、具体的にどういうことを意味するのか? ただ存在することだけで「国民統合」の役目が果たせるのか? それとも何か、「統合」する上で果たすべき役割、あるいはとるのが望ましい行為があるのか?

 しかしこれについては昭和天皇自身は何も語らなかった。また国民も、憲法学者を含め、「国民統合の象徴」とは何かについて深く追究した人はなかったのではないか。

 

◆「平成天皇」によって語られた「天皇象徴論」

この問いに対して、具体的な回答を自らの言葉で明瞭に示したのは、昭和天皇の跡を継いだ「平成」の天皇だった。1989年1月に55歳で即位して以来28年、2016年7月、80歳を越えた天皇はNHKのテレビ放送でこう語った。

「即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごしてきました。」

「天皇の位についてから、ほぼ28年、この間、私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごしてきました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、同時に事に当たっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えてきました。」

「天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を考えてきました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じてきました。」

「……私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬意をもってなし得たことは、幸せなことでした。」

 

1991年6月、平成天皇が即位して2年目、長崎県島原半島の普賢岳(ふげんだけ)の噴火によって発生した火砕流が、山肌を駆け下り、ふもとの家々を呑み込み、なぎ倒す大災害が起こった。そのとき、天皇は皇后とともに被災した人たちを訪ね、膝をついて見舞いの言葉をかける姿がテレビの画面で伝えられた。以後、列島各地で災害が起きるたびに、こうした天皇夫妻の振る舞いを、私たちはテレビを通して見てきた。

最悪の人災である戦争で亡くなった人々への慰霊の旅も、天皇は忘れなかった。沖縄には何度もおとずれ、サイパンやパラオ諸島のペリリュー島にも足をはこんで祈りをささげた。

国民の安寧と平安を願いつつ、災害で傷ついた不運な人たちに寄り添い、慰藉(いしゃ)すること、戦争で命を落とした人たちへ祈りをささげること、それが「国民統合の象徴」としての天皇の役目だということを、平成天皇は自分の言葉で明確に語り、かつ実践したのである。敗戦のときは11歳、学年でいえば小6であり、戦争国家の「黒い影」からは遠い、しかし無縁ではなかった「戦後」の天皇がたどりついた地点であった。

この「天皇象徴論」は、次代の「令和」の天皇にも受け継がれた。2019年5月の即位にあたってこう述べている。

「上皇陛下が30年以上にわたるご在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御心(みこころ)をご自身のお姿でお示しになってきたことに、改めて深く思いをいたし、ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国および日本国民統合の象徴としての務めを果たすことを誓います。」

その誓約のとおり、現天皇も皇后とともに「国民統合の象徴」としての言動を実践している。令和天皇の時代は、何かよほどの異変がない限り、まだ数十年は続くだろう。

 

◆憲法「前文」に示された政治理念「日本国のあるべき姿」

しかし――前に述べたように、いかなる家系も、それが「血すじ」による「世襲」である限り、いずれ絶える時を迎えざるを得ない。それが、神々の世界ではない、人間世界の宿命である。

では、天皇不在となった、その時、「国民統合の象徴」はどうなるのか。

国家があり、国民が存在すれば、その数が数千、数万人でなく、数百万あるいは1千万を超えるとなると、近代国家の場合、法による秩序維持が必要となり(法治国家)、さらにその法体系を原理的・基本的に統合する「憲法」が必要となる。封建制国家から脱却して近代国家をめざした日本が、まず必要として創ったのも「憲法」であった。

現在、日本を法治国家として「統合」しているのも「日本国憲法」である。補則を含め、103条から構成されているが、一般市民がその全体を正しく把握するのは容易ではない。全体を読み通すだけでも大変だし、暗記するのはなお大変である。

では、そのエッセンスを抽出してはどうか。幸い、日本国憲法には「前文」が付いている。それも、素敵な文章からなる。古関彰一氏の大著『日本国憲法の誕生・増補改訂版』(岩波現代文庫、2017年)には、氏の経験によると、憲法の勉強会などで日本国憲法のいちばん好きな部分は、と聞くと「前文」と答えた市民が多かったという。私も同感する市民の一人である。

次いで古関氏は、こう述べている。人々が感じとった「前文」の魅力は――「人間の本質、あるいは普遍性の表明があり、しかもそのような人間のあるべき理想を謳いあげた文章に魅力を感ずると同時に、およそ日本の法律は言うまでもなく公文書でも、まずお目にかかることがない、さわやかな新鮮さを感じたからではなかろうか。これぞまさに政治理念の持つ美しさと言えよう。」

 

「前文」はそう長くはない。約680字、400字原稿用紙で2枚足らずであるが、その中から中心部分を引用してみる。(仮名づかいは現代仮名づかいに変更。下線は筆者)

「日本国民は……政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人類相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」

「われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。」

 

この「前文」には下線部分に見るように「諸国民の公正と信義」とか「国際社会において」とか「他国を無視してはならない」「他国と対等関係に立とうとする各国」など、他国の存在や他国との関係、国際社会を強く意識して書かれている。これが戦争の惨禍を前にして書かれたという事情もあるが、日本が日の神(太陽神)が生まれた国であり太陽神の恩恵をこうむらぬ国はないという神話から、自国を「神国」「神州」と呼んで特別視・別格視してきたことの反省も込められているからにちがいない。

それにしても「前文」が、短い文章の中で「諸国民」や「国際社会」「他国」といった言葉を用いているのは、これが世界には多くの国々が存在していることを強く意識し、国際社会の存在を前提として書かれているからである。つまり「前文」は、「国際社会」の中での日本国民のあり方を語っていると言える。

 

◆「前文」から抽出した「国民統合の3理念(スピリット)」

さて、ここで先に設定しておいた最終課題、「国民統合の象徴」の問題に移る。

多数の国民、日本でいえば1億2千万の国民を「統合」するのは「日本国憲法」だということはすでに述べた。しかし103条からなる憲法は読むだけでも大仕事だ。

そこで、そのエッセンス、いわば日本国憲法のスピリットを述べた「前文」を「国民統合の理念」としてはどうだろうか、と私は考えたのである。

上記の「前文」の引用から、さらに中心的な語句を抜き出してみる。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」

この62字の中に、3つの理念(スピリット)が示されている。

A)平和主義(「恒久の平和を念願」)

B)民主主義とヒューマニズム(「専制と隷従、圧迫と偏狭の地上からの除去」)

C)国際社会での名誉ある地位

 

いかなる国も、「血すじ」による「世襲」を君主の条件とする限り、いずれは断絶する時を迎えざるを得ない。では、世襲の君主が不在となったとき、「国民統合の象徴」はどうなるのか。欧州や中東諸国の王室も、いずれはその問題に当面することになるだろう。日本の場合、その問題状況がよりリアルになったということかも知れない。

考えてみれば、前近代の君主国ではない、現代の民主国家の場合、「国民統合の象徴」として生命に限りのある人(ヒューマンビーイング)がその位置につくことに無理があるのである。

国家を統合するのは、人ではない。法であり、法に従って動く政治である。それをつらぬくのが政治的理念、すなわち「国民統合の理念」にほかならない。

こんにち、世界を席巻する偽君主たちによる、「平和主義」をかなぐり捨て、「民主主義とヒューマニズム」を蹴散らし、「国際社会での名誉ある地位」などには目もくれぬ独善と横暴を見るにつけ、憲法「前文」にうたわれた「国民統合のスピリット」の尊さを思わずにはいられない。                           

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