アジア新風土記(134)ヒマラヤの氷石崩壊






著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。







ヒマラヤ西部、ドウラギリとアンナプルナの山塊に挟まれて流れるカリガンダキ川沿いの街道はチベットから岩塩、ネパールからは日用品などを運ぶ隊商道だった。

街道筋の村から山麓を2時間も登れば、氷河の先端というか断片に遭遇することができた。さらに標高4000メートル近くまで上がってようやく8000メートルを超える峰々が見えてくる。

山懐を源とする小川は小さな氷河の塊の下を清冽な流れとなって麓へと続いていた。村人がヤクなどの放牧に行き来する川伝いの小道を上り下りしたときは時々、氷の冷たさに触れた。

氷河が溶け出しているとか、亀裂をつくっているかもしれないといったことは全く想像しなかった。氷河は太古の昔から硬く大地を覆っているということは暗黙の前提にあった。急な山道にヤクを追う人たちも川岸のわずかな土地に豆を育てる人たちも同じ気持ちだったのではないか。



半世紀も前の話に、その地にいま立ってもかつて見た氷塊は跡形もなく消えてしまっているのだろう。上流部の氷河そのものも消失してしまっているかもしれない。




2026年8月にネパールから報じられた氷石崩壊と土石流のニュースを聞いたとき、そのことを思い出した。小川の傍を歩いている最中に氷塊が少しでも崩れたら冷たい流れの中に落ちただろうことも思った。




8月26日朝、ネパール中部の中国・チベットとの国境近く、ランタン・リルン(標高7234m)で標高5200メートルの北壁付近に大規模な山塊崩落が起きる。

氷と岩は巨大な地滑りとなって谷底に落下、ボテコシ川(チベット名・吉隆蔵布)を下り、22キロ離れた中国側の国境検問所に6~7分で到着する。時速180キロを超える速さだ。

土石流はランタン谷に流れ込み、一時的に川を堰き止め、その湖をも崩壊させて村、バザール、橋、道路、水力発電所などを襲った。山塊はモンスーンがもたらす大量の水分を含んでいたと推定され、15年に起きた大地震による山容変化が崩壊を促した可能性もある。米地質調査所は午前8時37分にマグニチュード5・2の揺れを観測した。



ランタン谷もまたチベットとの交易路だった。1か月経って確認された死者は1496人、行方不明者は5800人を超えた。

犠牲になった人たちの多くは農業と牧畜で、あるいは小さな商いで生計を立てていた貧しい人たちだった。巡礼者も少なくなかった。

カトマンズからの道はチベット仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の聖地である西チベット・カイラス山に通じ、ヒンドゥー教・シヴァ神が自ら山を突いて湖をつくったという神話の地もある。

一生に一度の巡礼旅だった人もいたのではないか。谷は英探検家ビル・ティルマンが第二次大戦後のネパールを訪れ「世界で最も美しい谷の一つ」と紹介したことでも知られる。外国人観光客らには人気のトレッキングコースだった。



氷河と山塊の崩壊は地球温暖化の影響が大きく、10年のネパールに関する国連適応行動計画は気温上昇などの気候変動による氷河の融解、後退で災害の起きる危険性を指摘していた。

氷河、永久凍土の融解が原因と思われる災害には21年2月のインド北部ウッタラカンド州のガンジス川上流部で起きた山地崩壊がある。下流の村落が大洪水に見舞われ、200人が犠牲になった。



ヒマラヤ山脈周辺8か国で構成する国際総合山岳開発センター(ICIMOD)は23年、ヒマラヤ山脈と北西のヒンズクシー山脈の氷河は過去10年間の融解速度が20年前からの10年に比べ65%速くなっていると報告する。

ウェブサイト「ウェザーニュース」によると、地球観測衛星「Landsat」の過去35年分のデータから崩壊現場時付近の雪、氷は過去30年間で約9・3%減少している。

サイトはまた英国の自然科学誌「Nature Communications」掲載研究で氷河決壊は1980年代以降発生回数が年間約5.2件から15.2件になり、被害の約4割がヒマラヤ、中央アジアの高山地帯に集中していると伝える。(2026年9月9日)


ヒマラヤ各地で現出している氷河湖の問題もある。

インド政府は26年7月、国内のヒマラヤ地域にある10ヘクタール以上の氷河湖2485か所の内、危険性が非常に高い56の氷河湖を分類したと議会に報告する。(BBCウェブサイト、2026年9月14日)。

ただ、今回の土石流の発生現場付近に氷河湖は見当たらなかった。広大なヒマラヤ山地に危険の兆候を見つけることは極めて困難だ。



ネパールは地球温暖化の主因の一つである二酸化炭素の22年排出量が世界全体の0・05%しかない。カナル外相は9月1日、地元テレビで「地球規模の危機に対して極めて大きな代償を払っている」と述べ、排出量上位3か国の中国、米国、インドに「損害補償」を求める文書を送付する。

補償は因果関係の立証が難しい上、中国などが正面から受け止める可能性もほとんどない。しかし、影響を直接受けながら十分な対策をとれない国が投じた一石は決して軽くない。



24日の国連総会で「世界への警告だ」と訴えたネパールのシャハ首相は3月、民主化運動で旧政権を倒した若者らの支持を受けて新たな国づくりに着手したばかりだ。

25年の国内総生産(GDP)455億米ドル、1人当たりGDPは1512米ドルの小国に50億米ドル近い復旧・復興費は重過ぎる。

巨額融資は解決策にならないとして国際社会に無償の援助を求める36歳の宰相は難局をどう切り抜けていくか。(『アジア新風土記121』参照)




ランタン谷は14年11月に友人3人がトレッキングしたところだ。

一人はメールに「僕らの旅ではランタン谷の道はお花畑も広がり、雪を被った急峻な山が仰ぎ見られ、ヤクと人びとが行き交い、村人たちは幸福感に充ちていました。帰り道、出発地のシャペル・ベジまで戻り、この集落のバザールでヤクで編んだ毛糸の帽子など買ったり、湯量の少ない天然温泉に入ったりしたことを思い出しました」と書く。

村は壊滅的だったとみられ、いま一人は「生産性の低い地域の奴らが何人死のうと、ジジババ共が、何人くたばろうと」と書いた。「お花畑も広がり・・」のメールは「冥福を祈ることしかできないのはもどかしい思いです」と結んであった。



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