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アジア新風土記(131)マレー鉄道

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著者紹介 津田 邦宏(つだ・くにひろ) 1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。 |
シンガポール中心部のタンジョン・パカー地区にあるマレー鉄道シンガポール(タンジョン・パガー)駅は早朝、灰色の瀟洒な建物が静まり返った中にうっすらとその輪郭を浮き上がらせていた。
コロニアルスタイルの駅舎ファサードに並ぶ半円形入口の一つから入って天井の高いドームは照明はついているものの薄暗く、切符売り場、スナックの売店などを備えた待合室に乗客はまだ少なく、がらんとしていた。
空気は夜の涼しさを辛うじて保ち、熱帯にいることを忘れさせる。
マレー半島を北上してクアラルンプールまで行く始発列車の発車にはまだ時間があった。国境を接するジョホールバル近郊に帰る人がいた。終点までというビジネスマンがいた。彼らには日常の変わりない駅も、円い天井を独り見上げていると自ずと気持ちの昂(たかぶ)りを抑え切れなかった。異郷への旅立ちを前にした興奮と少しばかりの不安に掻き立てられた。
マレーシアへの出国手続きをプラットホームで終え、席に腰を落ち着ける間もなく列車が動き出した。ジョホール海峡を過ぎるのはあっという間だった。通過する駅名のマレー語に、国境をすでに越えたことがわかった。
マレー鉄道の車窓からの風景はどこまでいっても単調なアブラヤシ(オイルパーム)の樹林だ。ヤシ林が途切れて再びヤシ林になるまで時折、かつての熱帯雨林の面影を残す自然林と原野を見るが、それもほんの一瞬だった。
樹高20メートル前後のヤシの木々は一本一本が整然と並び、先端部に集まる細長い葉群は上空からは幾つものプロペラのような形という。幹のあたりは明るくて見通しが思いの外良かった。
等間隔に林立するヤシ林の連続は人工のにおいがして、アジアの豊潤な自然とは相容れない。インドの列車から眺めた圧倒的な自然の営みとは違うと感じるのは自分だけだろうか。
アブラヤシの太い幹と幹の間にぽっかりと空いて続く空間を見遣りながら、第二次大戦末期の日本軍が何の脈絡もなく頭に浮かんできた。
日本兵の一人、二人、三人がこのヤシやゴムのプランテーションの中を逃げ惑っていたのではないか。ビルマ戦線インパールでの敗走とは違って密林を彷徨うことはなかったとしても、敵軍に容易に発見される可能性はあった。
マレー半島は日本軍が連戦連勝でシンガポールまで勝ち進んだ半島でもあったが、破竹の勢いで進軍する日本軍のことまでは思いは及ばなかった。
大戦後のマレー半島は1948年から60年にかけて独立をめざすマラヤ共産党(MCP)軍事部門マレー民族解放軍(MNLA)と英軍、英連邦軍との熾烈な戦闘が続いた。
MNLAの勢力が1万人を超えず、ベトナム戦争時の北ベトナムのように社会主義国からの支援もなかったなどで壊滅に追い込まれたとされるが、「単一栽培農園」の多い地勢がゲリラ活動には不利だったこともあったのではないか。
人の手が入っていないジャングルが各地に広く点在していたならば、掃討作戦も難しかったのではと考えたりもする。東南アジアのその後の歴史は大きく変わったかもしれない。
マレー半島の自然は英国の植民地経営によって開発され、19世紀のマレー半島、ペナン、シンガポールを領有する海峡植民地時代にはスズ鉱山の開発とゴムの木のプランテーション化が進む。
大戦後は合成ゴムの大量生産によって天然ゴムの需要は落ち込んでいき、大規模ゴム園は次々とアブラヤシの農園に代わっていった。
果実から採れるパームオイルの1ヘクタール当たり収量は他の油脂植物の約5倍といわれ、少ない土地で大量の油が生産できることも転用に拍車をかけた。
マレーシアのマレー半島部分は約13万平方キロ。
プランテーション全体は3万5000平方キロ、アブラヤシは2万5000平方キロ、ゴムは1万平方キロ前後で推移している。
パームオイルは酸化に強く長期間の保存が可能な植物油だ。
日用品の洗剤、化粧品、スナック菓子など用途は多種に及ぶ。
一方で熱帯雨林の伐採は野生動物の生息地を失わせ、焼き払いによる二酸化炭素の放出が地球温暖化を加速させるともいわれている。
マレー鉄道もまた英国支配の本格化と共に路線を拡大していった。
英保護領ペラ王国が1885年にスズ鉱石を港まで運搬するために建設したペラ国有鉄道は、スズ、生ゴムの搬送手段としてマレー半島西部を縦断する西海岸線から東海岸線へと延伸する。
西海岸線はジョホールバルからタイ国境のパダンブサールに至り、シンガポールからの直通旅客列車はジョホール海峡に土手道が完成した後の1923年に開業した。東海岸線は西海岸線グマス駅で分岐、東北部海岸のトゥンパが終着駅になる。
熱帯の木々が奔放に生い茂っていた大地を想像する。
どれほど奥深く、暗く、湿潤な森が続いていたのか。
太陽の光が差し込むだけの余地は微かなりともあったのだろうか。
詩人、金子光晴の『マレー蘭印紀行』(中公文庫、1978年初版)をみる。
金子は昭和初期、ジョホールバルから100キロほどのバトゥ・バハッの町からセンブロン河を遡った。
「水生のニッパ椰子を赤く枯らした苫に葺いた細長いサンパンに乗って(中略)しげみの奥ふかい川すじを辷(すべ)っていった」
「密林のそこをひっそりと水が流れている。その水になかば身をひたす森の、闃(げき)としたこのしずけさはなんだろう。人の力をいまだしらず、人の調節を経験したことのない野生の植物どもが、互の意慾をむき出しにしてふれあっている密林では、かれらは、それぞれのはげしい気質をすこしも失わずにいる」
センブロン河はジョホール州の中央高地から西に流れてマラッカ海峡に注ぎ込む全長100キロほどの川だ。
ジョホールバルから列車が小一時間ほども走れば川を横切るのではと思ったが、実際に渡ったかは判然としない。
辺りの景色はすでに金子の描いた山野とは全く変わってしまったか。上流へと分け入っていけば遭遇するのだろうか。
シンガポール駅はいまは旧シンガポール駅だ。
1932年の開業から79年後の2011年に営業を終える。
シンガポール国内の鉄路も廃線となり、現在は北部ウッドランズ地区の国境駅から出発する。マレー鉄道の記憶はヤシ林への思いも、日本兵、ゲリラ活動、熱帯の密林への思いも、すべてが石造りの駅舎から始まった。
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