アジア新風土記(129)陳文成事件紀年広場




著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。








台湾大学の椰林大道。大学構内というよりは公園を思わせた


台北の中正紀念堂から羅斯福路を南に進むと約3キロで台湾大学の広大なエリアにぶつかる。日本統治時代の1928年に台北帝大として開校した大学は正門からの椰林大道が真っすぐに図書館まで延びていた。

長さ600メートル、幅20メートルほどの大道左右に並ぶダイオウヤシは100本を数える。ヤシはどの木も樹高15メートルはあり、灰色がかった太い幹が先端近くに鋭い葉群を広げていた。巨木たちの下を歩いていると、なぜか心まで伸び伸びとしてくる。空はどこまでも高かった。



椰林大道が行き着く図書館の向かって左手前に陳文成事件紀念広場と黒い大理石のオブジェがあった。2021年2月、米国から一時帰国中の数学者陳文成氏の遺体が発見された場所につくられ、1年後には事件の概要を伝える説明板もできる。ダイオウヤシに見守られながら南の国の軽やかな空気を感じた矢先、胸の内が少しばかり沈んだ。



紀念広場のオブジェ。後方は遺体が発見された外階段




陳氏は米国カーネギーメロン大学で統計学を教えていたが、1981年7月2日夜、警察当局の取り調べを受け、翌日未明、台湾大学の研究生図書館外階段下で死体となって見つかった。警察は自殺として処理する。家族、友人らは謀殺されたとみる。陳氏に米国で台湾の民主化についての関心はあったものの政治活動らしき動きはなく、一時帰国も親族訪問が目的だった。拘束の理由は不明のままだ。

事件記録などは公表されていない。当時は戒厳令下、国民政府・国民党政権による民主活動家、人権活動家らに対する理由のない拘束、迫害が続いていた。台湾の人たちが忘れることのできない白色テロの時代だった。


紀念広場では毎年、陳氏が連行された日に追悼集会が開かれ、2026年の7月2日夜は雨だった。親類縁者、高校、大学時代の友人らが集まり、45年前の多くの未解決の問題を残す事件の真実が明らかになることを祈った。




遺体発見現場の外階段はなんの変哲もない階段だった。
遺体はどのように姿で見つかったのか。放り捨てられていたのか。
紀念広場ができる前に訪れたとき、その「瞬間」を想像しても、思いつく言葉は浮かんでこなかった。通り過ぎる学生らはだれもが事件を知らなかった。

完成後、オブジェの隣に「国家暴力に断固抵抗した勇敢な人を記念して」という一文の石碑を見る。事件を公の場に「提示」するために動いた人たちの強い、執念とも言える気持ちを思った。




台湾大学からさらに南にはかつては台湾省警備総司令部軍法処看守所だった国家人権博物館・白色テロ景美紀年園区がある。何回か足を運んだが、その度に新しい発見があり、体が引き締まった。正面入口近くには銃殺された人、獄中死した人らの名前を刻んだ紀念碑(墓碑銘)があった。


白色テロ景美紀年園区。犠牲者の名前が刻まれていた




沖縄本島南端の「平和の礎(いしじ)」に出会った時と同じように、わずかな文字が伝える一人一人の歴史に立ち止まる。犠牲者の写真や肉親への手紙、遺書、記録文書などが陳列された建物もある。中国語で書かれた遺書、日本語で書かれた手紙など一回ではすべてを読み切れない。その都度、書き残した人の知られざる生涯の一端に触れる。



奥まった一角にある二階建ては独房、医務室などがそのままの形で残り、1949年5月の戒厳令布告文書なども確認できた。

独房は入ってみると一層狭く、壁が迫ってくる錯覚に襲われる。コートハウスの建物の中庭からは方形に仕切られた空が見えた。一年、二年と同じ空を眺めていると空は四角い空のままに変わっていくのだろうか。

周囲の5メートル以上もある塀の上は鉄条網が巻かれていた。案内人はいない。
時折、同じように見学する人に出会うだけだ。沈黙だけが支配する空間は時間が止まっていた。そこに発散されるなにかは被害者の叫び以上に加害者だけの持つにおいではないかと感じる。悍(おぞ)ましいとでもいえる得体の知れないものかもしれない。同時に加害者と被害者の姿が一カ所に存在することの意味を考えた。



独房は足を踏み入れるとき一瞬、躊躇する




第二次大戦後、台湾に逃れた国民政府は大陸反攻を唱えて厳しい治安維持体制を全島に敷いた。戒厳令が解除される87年までにどれだけの人たちが虐殺されたか。

おおよそ14万人が連座、投獄され、4千人近い人たちが男も女も、本省人、外省人、先住民の区別もなく処刑されたといわれる。

正確な犠牲者数はいまなお不明だ。弾圧は特に朝鮮戦争が勃発した50年6月以降に増える。戦争が政権に「台湾での共産主義撲滅」という格好の名目を与えたのか。



戒厳令布告文書。正本か写しかはわからない



景美紀年園区で白色テロを生き抜いた一人の老人に会う。

独立運動に係わったとして53年に投獄され、台北の軍法処看守所、台東の国防部刑務所などを経て台湾東南部・緑島に移送された郭振純さんだ。

22年以上服役した後、75年の蒋介石の死によって無期懲役を減刑されて出所する。語り部として「処刑者は当局が出した数字です。実際はもっと多く、まだ明らかになっていない事実がたくさんあるはずです」と話してくれた。
2018年に92歳で亡くなる。




郭さんが送られた緑島は台東近くの富岡港から船で50分のところにある。
広さ15平方キロの珊瑚礁の島は日本の植民地時代には火焼島として知られ、路上生活者らの収容所にもなった。国民政府になって政治犯の思想改造を目的とした新生訓導処ができる。施設は現在、緑島白色テロ紀年園区として整備され、人権紀念碑には政治犯として投獄された人たちの名前がレリーフに刻まれている。


緑島の名をタイトルとした「緑島小夜曲」という歌がある。
「この緑島は船のようだ」という歌詞で始まる曲は戦後に大陸から渡ってきた周藍萍という音楽家が高校生だった女性に贈ったラブソングだ。
台湾で初めてレコード化された中国語曲は長い間、緑島の政治犯らの心情を歌ったものだとされてきたが、周さんの娘によって恋の歌だったことがわかる。


緑島小夜曲はいまも歌い継がれている。台湾の人たちには、ラブソングだとわかってもなお、緑島に送られた人たちとその家族らの想いに心を重ね合わせる人たちが少なくないのではないか。台湾社会もまた、小夜曲を通して過酷な時代と人々の心を労わり、包み込んでいるような気がする。

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