アジア新風土記(126)台湾・黒水溝






著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。





台湾を歩きながら、いったいどれだけの媽祖廟があるのかと思ったことがある。
航海の神として知られる媽祖を祀る廟、天后宮は大陸でも香港でも目にすることは多いが「媽祖密度」では台湾が圧倒的なような気がした。



台湾中部の港町、鹿港の中心街には台湾最古といわれる鹿港天后宮がある。
夏の一日、廟には南部、嘉義地方の人たちが神輿を先頭に参拝していた。

各地から鹿港の神に挨拶に来る「出巡遶境(しゅつじゅんじょうきょう)」だ。
門前では順番待ちの人たちの列ができ、天后宮の人気の高さを物語っていた。

辺りは「陣頭」と呼ばれる一種の歌舞団が打ち鳴らす銅鑼、喇叭(ラッパ)の音が響き渡り、跳鼓陣(踊りと太鼓)獅陣(獅子舞)が、参拝客の心を否が応でも高ぶらせていた。
門柱の脇に置かれたドラム缶の中では爆竹が激しく弾けていた。




出巡遶境。祈り、祭りは様々だと改めて思う





鹿港天后宮



線香は絶えることがなかった



鹿港天后宮はその沿革に「明末清初」とだけ記されていた。1645年の明朝滅亡から清朝勃興期に創建されたものとみられ、媽祖が誕生し昇天した地とされる福建省・湄洲島の媽祖祖廟から直接分霊された台湾唯一の廟であることも、津々浦々からの鹿港詣での由縁だと聞いた。


鹿港は清朝時代、台湾府が置かれた台南(安平)、台北・萬華とともに「一府、二鹿、三艋舺(ヴァンカ・萬華)」といわれた港町だった。

鹿港渓からの土砂の流出はしかし、湊の機能を徐々に失わせていく。
天后宮からバイクに座席を付けた電動三輪車で30分程の河口には漁船が十数隻舫(もや)いをとっていた。

一帯は埋め立てが進み、漁船の後背は工業用地が広がっていた。
海岸線に出て防波堤の上から浜辺と海を眺める。
薄い藍色の海原の水平線のその遥か先に媽祖が生まれたとされる湄洲島がある。









湄洲島の再建なった媽祖祖廟




福建省福州から南に130キロほどの湄洲島を訪ねた時は文化大革命時代に祖廟の大部分が破壊され、1989年に再建が完了した直後だった。
島に行く船は現在のような近代的なフェリーではなく、艀のようなものだった。

20分ほどで渡ったその先に巨大な廟はあった。
老若男女、善男善女と一緒に参道を登り、線香を上げる。
日本のような神社仏閣と異なり、どこまでも荘厳さとはかけ離れた世界のように感じられても、人々の思いには変わりはないと思った。


媽祖は宋の時代、建隆元年(960)に湄洲島で生まれた霊験あらたかな才女、林黙娘という女性が神格化したといわれる。

父親の海難を悲嘆して旅立ち、仙人に誘われ神になったとも、父を捜しに海に出て遭難したとも伝えられる。航海、漁業の守護神として人々の信心を集め、清朝康熙帝の時代には天の皇后を意味する「天后」に封じられた。


湄洲島の媽祖像



中国大陸と台湾本島に挟まれた台湾海峡は17世紀、インドネシア・バタヴィア(ジャカルタ)を本拠とするオランダ東インド会社が制海権を握り、中央に位置する澎湖諸島を占領する。

安平に転進後はゼーランディア(熱蘭遮)城を築いて対中貿易に乗り出すが、ほどなく明朝は滅亡、大陸進出の野望は明の遺臣鄭成功によって打ち砕かれた。鄭は安平を明朝再興の拠点としたが、一年を経ずして病死する。(『アジア新風土記55』参照)

この時代、福建省、広東省などから多くの人たちが台湾を目指した。
旅立ちの前には湄洲島に渡って媽祖詣でをするか、祖廟から分霊された地元の廟に額づき、お守りを手にした。過酷な海を前に媽祖を信じることが心の拠り所だった。

移住者たちのジャンク(木造帆船)は小型の帆船がほとんどで、交易に利用されるような大型商船ではなかった。



海峡は北東から南西に伸び、長さは約370キロ。
両岸の平均幅は180キロで、最も狭いところでも126キロある。
平均水深は約60メートル。

大陸に近い西側ほど浅く岩だらけの海岸に大小の島々が連なり、厦門(アモイ)などの天然の良港に恵まれる。
台湾側は大陸とは異なって砂浜が続き、中部から北部にかけては比較的深く、高雄に近い東南部が最も深い。



黒潮から分かれた台湾海峡海流が南から北に流れ、夏は南西、冬は北東の季節風が吹きつける。

モンスーンの影響が大きい夏の流速は水深20メートルほどのところで1秒間に台湾側で20~60センチに達する。
海流本体の黒潮は最大秒速が2メートルにもなるので、黒潮よりは緩やかともいえるが、それでも約3分の1近い速さだ。

この速度が船の運航にどれほどの影響を与えるかの知識はないが、やはり小船では航行を左右するほどの速い海流なのではないか。
しかも天気が比較的安定していた夏の時期でも時に台風などの暴風雨に見舞われた。



人々はこの海を色が濃く黒っぽかったことなどから「黒水溝」と呼んだ。

台湾に「十人の渡航者がいれば、六人は航海中に死に三人が台湾に留まり一人は大陸に還る」という諺があるように、無数の船が波間に沈んだことは想像に難くない。

無事に辿り着いたとき、移民たちの心に自然と湧き上がる媽祖への感謝の気持ちはどれほどのものだったか。


鹿港の浜、安平の湊に立っても黒水溝の恐ろしさはただ想像するしかない。
この黒い海を
帆船を自在に操舵しながら中国との交易の場とした日本人がいたことを思い起こす。



豊臣から徳川時代初期にかけての交易船は朱印状を携えて安平の湊にも立ち寄っていた。1628(寛永5)年、朱印船の船長で長崎出身の浜田弥兵衛は交易品の関税率をめぐって、東インド会社から派遣されていたヌイツ長官を襲ったタイオワン事件を起こす。

事件はオランダ側が日本人の自由な出入港などを認めて収束したが、弥兵衛にとってはオランダの安平占拠前から中国の交易船と取引してきたのに勝手に関税をかけてきたという思いがあったのではないか。


ゼーランディア城は安平古堡という名称で史跡になっている。

オランダ統治、台南府などの資料によって由来が語られているが、日本人船乗りらの「活躍」を示すものは特になかった。見落としたのかもしれない。
城の中央に「安平古堡」と彫り込まれた石碑が目立つ。
かつては「浜田弥兵衛」だったが、戦後になって削られた。

オランダの城跡に日本人の名前は唐突でそぐわないとも言えたが、なぜか無性にもの哀しくさせる石碑だった。




ゼーランディア城の「安平古堡」碑

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