アジア新風土記(124)ラダック





著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。











ラダックはインド西北部、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に挟まれたチベット仏教の色濃く残る地方だ。ニューデリーから飛行機でヒマラヤを越えて1時間ほど、周囲を岩山に囲まれた中心地のレーは標高3500メートルの高地にあった。

6月の終わりの日差しは強かった。水色がかった空は広く、大きかった。
ニューデリーでは雨季が始まろうとしていたが、降水量が1年に100ミリほどの町に、空の色だけがわずかに雨のにおいを感じさせてくれた。





レーの町

レーは鈍色(にびいろ)の家々が続き、方形の屋根と屋根との間に垣間見える白い壁がモノクロームの町を際立たせている。

市街地のはずれには麦畑があり、畑を仕切る小道沿いにポプラ並木があった。
アフガニスタンのバーミヤンの谷を思う。
秋のバーミヤンはポプラの木々が黄金色に輝いていた。
レーの鮮やかに変化する様を想像した。(『アジア新風土記51』参照)


レー郊外




町の中心を南北に走る大通りに、パンジャビドレス、サリー姿の女性が連れ立って買い物をしていた。
臙脂(えんじ)の法衣を纏ったチベット僧が行き交う。

スカーフでそれとわかるイスラムの女性もいた。
野菜売りの女性たちが列をつくって野菜を並べる。
大根、人参、カブに青菜類はカブールでも見た豊かな食材たちだった。
荒涼とした大地なのにという思いがつい頭をよぎる。

赤い布に小さなヒスイを並べた老人は商売をする気などさらさらないかのようにたばこをふかしていた。




若い僧侶たち






形は不揃いだが、滋養豊かに見えた



レストラン、商店などは木の枠組みをした店が目立つ。
辺りに大きな森はなく、木材はどこから運ばれてくるのか。

軒を連ねる店の屋上から大道に渡された何本もの旗はタルチョ(祈祷旗)に見え、裸電線と奇妙にマッチしていた。車の往来は頻繁だった。
それでも人々が譲り合っている光景をみる。チベット系のラダックの人たちの柔和な眼差しがそうさせているのかもしれない。
喧噪とは程遠いレーの穏やかな佇まいだった。



レー中心部の通りは幅10メートルはあるか





チベット料理の店は思いの外、少なかった。
探し当てた店で「モモ」と呼ばれる丸い形をした蒸し餃子を注文、皮の固さがチベット風と思って口にする。もっちりとして味はよかった。

トウモロコシ入りのスープが塩が少しきつく疲れた体には合った。
チキン、マトン料理のメニューには牛肉も豚肉もなかった。
アルコールはレストランに定番のビールが見当たらず、ワインだけだった。


レーの裏道は土埃の立つでこぼこの道が続いていた。両側から土壁が迫る狭い通りを歩き、懐かしくなるような土のにおいを肌が受け入れる。風は水と緑に恵まれた東南アジアの、熱気を含んで時にむせかえるような風とは違っていた。



町の北東に空を切り取るかのような「ナムギャル・ツェモ」の岩山がある。
頂上の岩をえぐって屹立(きつりつ)するナムギャル・ツェモ・ゴンパ(チベット寺院)は、市街地のイスラム教モスクを凌駕するチベット仏教の圧倒的な姿を演出していた。


ナムギャル・ツェモ・ゴンパ



ゴンパの白い壁が岩肌に逆らって眩しい。
きつい登りに体から汗がふき出てくる。

登り切った先に端座する弥勒菩薩を拝む。
信仰の篤い人たちの気持ちにはとても近づけないと感じながらも手を合わせた。

ゴンパのタルチョは退色していて、微かに青(空)、白(風)、赤(火)、緑(水)、黄(地)の五色はわかったが、経文はよく見えなかった。
風のない日だった。

経文が書かれたタルチョは風になびく度に読経したことになるという。
垂れ下がったタルチョを眺めながらそのことを思い出していた。




山裾に立つ九層の旧王宮もまた、空に向かって聳立(しょうりつ)していた。
9世紀の建国とされるラダック王国の宮殿跡だ。

17世紀初めに建立され、チベット・ラサのポタラ宮のモデルという説もある。
19世紀中頃の王国の滅亡と共に放棄され、廃墟に近かった。
木彫の扉を持った旧王宮の入口にかつての荘厳さを留めていた。



ヒマラヤの西端に位置するストク・カンリの高峰が遥か南に望める。
標高6123メートルの雪山と市街地の間をインダス川が流れていた。
上ラダック地区と呼ばれる上流部の川幅は20メートルもあるだろうか。
青磁色に光る清冽な水流は砂礫を削り、両岸に小さな叢(くさむら)をつくる。

やがてはインド亜大陸からインド洋に注ぎ込む大河を思い描くことは難しかった。



ストク・カンリ









インダス川を遡る街道周辺にはいくつものゴンパがある。

カルーという小村で川沿いの道を離れ、北に6キロほど行くと、高さ140メートルの山塊にぶつかった。

山腹に眼窩を思わせる無数の僧房を持つチェムレ・ゴンパだ。


17世紀の建立という。頂上近くのドゥカン(本堂、僧侶の集会場)、ラカン(堂)には高僧グル・リンポチェ像、極彩色の壁画などが並んでいた。


ゴンパは厳しい岩山などに築かれることが多い。昔も今も過酷な自然の中に立つ僧坊、ドゥカンに身を委ねることが修業の一つなのか。


チェムレ・ゴンパ

ラダックにチベット仏教が定着したのは7世紀にチベットの吐蕃王国の支配下に入ってからといわれる。

8世紀にかけて多くのチベット人が流入、チベット仏教もまた広まっていった。
インド・ダラムサラに暮らすダライ・ラマ14世は水害被災地の慰問など折に触れて訪れ、2023年8月にはモスクにまで足を運び、イスラム教信者らとも話を交わしている。


レー市街地の北はインド軍が駐屯する施設だった。
ラダックのあるカシミール地方が紛争の地であることを実感する。
軍の高官がゴンパ参りを欠かさないとも聞いた。



カシミールはイギリス統治時代は藩王国だった。

1947年にインドとパキスタンが独立したときはインドに帰属したが、イスラム教住民らの独立運動が起き、第1次カシミール戦争へと拡大する。

両国の領有権争いは71年の第3次カシミール戦争を経て、停戦ラインを境界とすることで暫定合意した。ラダック東部のアクサイチン地区を実効支配する中国を加えた三国の大規模衝突の可能性が消えることはない。




インド政府は2019年8月、カシミール地方のインド側支配地、ジャム・カシミール州を東部のラダックと西部のジャム・カシミールに分割、連邦直轄領とした。ヒンズー至上主義を唱えるモディ政権の下で、チベット仏教、文化もまた変質を迫られるのだろうか。


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