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アジア新風土記(123 )台湾・国民党主席の大陸詣で

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著者紹介 津田 邦宏(つだ・くにひろ) 1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。 |
2026年4月10日、台湾の最大野党、国民党の鄭麗文主席は北京・人民大会堂で中国の習近平・中国共産党総書記(国家主席)と会談、「台湾独立」への反対を表明、中台が「一つの中国」で意見の一致をみたとされる1992年の「92コンセンサス(共通認識)」の堅持で合意した。
2016年11月に当時の洪秀柱主席が習総書記と会談して以来9年5か月振りの国共トップ会談だった。
鄭氏には念願の会談だったが、筋書き通りとも言える内容に新鮮味はなく、台湾で生きていく、生きざるを得ない国民党という政党にプラスになったのかどうか。
国共両党のトップ会談はいまに始まったことではない。
第二次大戦後の国共内戦に敗れた蒋介石・国民党政権(国民政府)が台湾に逃れてから56年後の2005年、当時の連戦主席が分断後初のトップ会談を胡錦涛総書記と行った。
15年には馬英九主席が総統として習氏とのシンガポール首脳会談を実現させている。
「国共トップ会談」という枠組みが台湾になにがしかの実りを与えるには、分断後の年月は長過ぎた。
大陸で生まれた両党だが、両者の立場は昔とはすでに異なり、台湾側の中国、中国共産党への考え方は大きく変わっている。
台湾の人たちは「台湾」としてのアイデンティティを年々強めている時に国民党トップが大陸で中国との一体感をアピールしても、そこに現実社会とはかけ離れた「言葉の遊び」をみてとる。
中国が鄭氏との会談に応じた背景は24年4月の民進党・頼清徳政権発足直前、習氏が馬英九氏を招いて会談、「一つの中国」を強調した構図に重なってみえる。
今回もまたトランプ米大統領との会談を1か月後に控えていた。
中国にとっては「台湾統一」実現に歩調を合わせているということを内外に誇示する舞台だった。
鄭氏は南京で日本の植民地支配を批判、北京では抗日戦争の資料保存で中国と協力してあたると述べるなど中国と同じ立場に立つ発言を続けた。
高市早苗首相の「台湾有事」発言から際立つ中国の対日強硬策に同調したという見方もできる。
日本に歩み寄りを見せる民進党政権への牽制という受け止め方もあり、今後の日台関係に影響を及ぼしかねない動きと言えそうだ。
国民党はなぜ、鄭氏を党主席に選んだのだろうと改めて思う。
洪主席と同じ轍(てつ)を踏むことにならないか。
洪氏は北京での会談で習氏と緊張緩和などを目的とした「平和協定」の検討を話し合うなど大陸側にシフトした姿勢を示したが、台湾社会の強い批判を浴び、8カ月後に主席を退く。
鄭氏を主席に選出した党大会は25年10月に開かれた。
55歳という年齢は候補者6人の中で2番目に若く、ダークホース的な存在とみられていたものの、台湾海峡両岸の積極的な交流、協力を前面に打ち出して党勢刷新ムードを呼び込んだ。
対中政策は馬氏らの融和政策とそれほど変わっていないように感じたが、約33万人の党員投票は退役軍人らコア層の支持もあって大方の予想を覆した。
大陸への思い入れの強い党員がなお多いということかもしれない。
有力候補と目されていた盧秀燕・台中市長らが立候補を見送ったことも大きかった。
鄭氏の大陸訪問は織り込み済みの話なのか、台湾からは目を惹くような反応は聞こえてこない。
26年11月に予定されている統一地方選挙に有権者がどのように判断するかはまだ定かではない。
首長選などは中台関係だけが論議されるわけではなく、地方それぞれの問題を問う選挙でもある。
ただ、国民党候補者は対立候補、有権者から「あなたは中国人ですか」という問いに直面するとの指摘もある。
主席に添ってことさらに「中国人」を強調するのは社会の趨勢に抗(あらが)うものでしかない。
28年の次回総統選を巡る候補者選定はさらに難問だ。
過去の選挙は大陸との融和を主張していては民進党に勝てないことを実証している。
国民党の歴代主席は勝負を分ける無党派層、浮動票の獲得に向け、中国との「距離」に苦慮してきた。
北京で習氏が掲げる「中華民族の偉大な復興」に「両岸の人々の共同の復興である」と応じる鄭氏に党内から拒絶反応が起き、候補者の大陸政策を巡って紛糾する可能性は否定できない。
鄭氏の父は雲南省出身の軍人、母は台湾人だ。
政治家を志した当初は、1990年に国民党一党独裁体制の改革を訴えた野百合学生運動に参加するなど熱心な民進党支持者だった。
民進党が初めて政権を担った2000年代初めから中台関係の緊張は同党の政策にあると批判に転じ、05年に国民党に入党する。
台湾ではかつて国民政府の台湾撤退によって台湾に逃れた人、家族らを「外省人」と呼び、以前から台湾に暮らしていた人(本省人)と区別していた。
時代とともにそのような意識は薄れ、「台湾人」という概念が一般的になっている。
しかし、「台湾人が自信をもって『私は中国人だ』と言えるようにする」と述べる鄭氏のような強烈な中国人意識を持つ政治家が時に現れる。
ストレートな「中国賛歌」がいまの台湾で謳われることに驚く。
大陸の「血」というものへの思いは、台北・松山空港近くの民権東路三段106巷という路地に生き続ける鄭南榕に行きつく。
彼は鄭主席と同じく外省人で、父親が福建人、母親は台湾の人だった。
戒厳令下に雑誌「自由時代」を立ち上げ、表現の自由と民主化を訴え、公の場で初めて「我是鄭南榕 我主張台灣独立」を宣言する。
鄭南榕の胸像
戒厳令解除後の1989年4月、その思想が反乱罪に当たるとした当局に抗議して編集長室で焼身自殺する。
焼け跡がそのままに残る部屋に入ったとき、燻(くす)んだ壁、机から発散される気、エネルギーのようなものに圧倒された。
編集長室。モノクロームの世界は強烈だった
数分後、編集長室を出て思い切り息をした記憶が蘇ってくる。300メートルほどの通りは「自由巷」と呼ばれている。
自由巷。マンションの3階が事務所だった
大陸にルーツを持つ台湾の人たちそれぞれに、様々な思いはある。
父親なり母親なり、あるいは祖父母が大陸出身の台湾人は、鄭主席の言動をどのような思いで見ているのだろうか。
鄭南榕のような強烈な個性こそなくても、彼のような心を内に秘めている人は少なくないのではないか。
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