アジア新風土記(120) ハノイのフォー





著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。



ハノイは静かな街だ。大通りから横道に入り、その奥の細い路地を取り留めとなく歩いていると、いつの間にかアジアの街という感覚が薄らいでいく。
両側には落ち着いた黄色が幾分燻(くす)んで黄銅色に変わった壁が続いていた。建物のこれも少し沈んだ緑色の窓枠と配色の妙を見せている。
街路樹のサーク(ドライマホガニー)の大木だけは鮮やかな緑の葉に陽光を受け止めていた。どこかヨーロッパの裏通りに似ていた。ラテン文字をベースにしたベトナム文字の看板が一層、その思いを確かなものにしていた。




アジアにエキゾチックな雰囲気はマカオにもあり、あるいは返還前の香港にみることもできた。
ハノイはフランス統治時代に多く植えられたサークにベトナム原産のドウダスワン、サウなどの木々が柔らかく街を包み込んでいた。石造りの建物が自己主張しないところに違いがあるのかもしれない。
時折すれ違う人が「ノンラー」と呼ばれる笠を被っている。ヤシの葉と竹でつくられ、日よけにも雨除けにもなる円錐形の笠は、この裏通りがベトナムの通りだということを改めて気付かせてくれた。





ハノイの真ん中にあるホアンキエム湖の北側は通称「三十六通り」と呼ばれる旧市街だ。ベトナム王朝の王都だったころからの繁華街は仏領になってから現在の輪郭ができたといわれる。

古い家並みは改築などの厳しい規制によって守られ、大通りには宝飾品、生地、雑貨から線香、漢方薬などを売る店が軒を連ねていた。
市民、観光客らで賑わいをみせる通りに惹かれながらも、その一つ一つに情趣を感じさせる小道の魅力には勝てなかった。人混みを避け、いくつもの路地を抜けていくうちに雑踏は次第に遠のいていった。



裏通りは人だかりの先には決まって、小さな食堂があった。
テーブルは狭い店から通りにまではみ出し、椅子の多くは脚が短かった。
腰を落とすと小学校の小さな椅子に大人が座るような心許ない気分になる。
安価で持ち運びが便利、雨のときなどはすぐ片づけられる椅子はどこでも流行りそうだが、ハノイのように当たり前にあるところは見たことがない。
知人はベトナム戦争のころの物資不足は椅子の脚にまで及んで短くなったと話してくれた。冗談ですよと言葉を継いでくれたが、米軍がハノイを空爆したとき一緒に避難させるには格好の造りだったのではと思ったりもした。





食堂の主人にフォーを注文する。米粉を平たくした麺に牛肉などの具材を入れたスープ麺だ。牛肉入りの定番「フォー・ポー」は香菜を添えてあっさりとした口当たりだった。シンプルな淡泊ともいえる味はハノイの街に合っていた。


フォーはベトナム料理店に欠かせないメニューだが、起源が近代にあることを知って少しばかり意外だった。ハノイを中心に人々の日常食になったのは1900年前後という。北部の郷土食が第二次大戦後に全土へと広がった理由の一つには第一次インドシナ戦争後の54年ジュネーブ休戦協定による南北分断があるという。


北の社会主義国(北ベトナム)を嫌った人たちが多く南に逃れたことからフォーもまた南に伝播していった。味も風土の違いを受けて変わっていき、是非を巡る論争まで起きていると聞いた。

ホーチミンで食べたフォーは豊かな食材にハーブなどの種類も多く、味にバリエーションがあった。食べ比べてみて、南北の味覚に対する異なる見方に納得する。



フォーの由来は諸説あった。

一つにはフランスが19世紀後半からの植民地支配の時代にポトフ料理を持ち込んでベトナム人に牛肉を食べる習慣を付けさせたという説がある。
ポトフの「フ」と発音が似ているが、肉と野菜の煮込み料理と麺との関連はない。

二つ目は北部地方に17世紀ごろから伝わる水牛の骨を煮込んだスープに米麺を加える料理を起源とする説だ。

三つ目に中国系の人たちが中国南部の河粉と製法が同じ麺に牛肉を入れた牛肉麺を持ち込んだという話もある。ただ、多くの人が食べるだけの牛がいたかという疑問が残る。農村を訪ねても草を食んでいるのはほとんどが水牛だ。
フォーという名前も水牛の骨入りスープ麺、牛肉麺からは浮かんでこない。


どの説も一長一短で、一つに絞るのは難しい。
いくつかの要素が絡み合って生まれたということなのだろう。
諸説の中ではフランス人がポトフ、ステーキ用の牛肉を求めて牛の生産が増え、食べ残した牛骨、肉ガラなどの処理に困って、具材の水牛を牛に置き換えたという話に説得力があって面白かった。

水牛の骨入りスープ麺、牛肉麺があったとしても、フランスの植民地にならなかったならば、ベトナム料理を代表する一品になったのかどうか。
ハノイの裏通りの屋台で味わうフォーに「植民地」を意識するのは考え過ぎだろうか。植民地が大航海時代からの欧米列強、日本による侵略の痕跡だということは論を俟(ま)たないが、植民地が遺したなかに新たな価値を生み出していったものもまたあるのではないか。
フォーの成り立ちにもそのような歴史の綾をみる。


フォーのスープを飲み干して人心地がつき、再び歩き出した通りの一角に古い寺を見つける。人気のない寺は荒れていた。土塀に囲まれた狭い入口で漢字の文言が目に留まる。

街で見かけることの稀な漢字との遭遇は奇妙な感覚だった。紀元前の漢・武帝時代から中国の支配が続き、唐代には安南都護府が置かれたという知識はあっても、違和感はなかなか消えなかった。


古寺の境内に足を踏み入れながら、阿倍仲麻呂のことが頭を過(よ)ぎる。
奈良時代に遣唐留学生として唐に渡った仲麻呂は8世紀の中頃、唐の高官として6年ほどの安南都護を命じられている。
彼が暮らしていたころのハノイはどのような佇まいをみせていたのか。至る所に漢字が溢れた中国の街と変わりはなかったのだろうか。往時への想いはつきなかった。


ハノイから郊外のノイバイ国際空港に向かう途中、タクシーの車窓からは左手奥に穏やかな山並みが見える。山々にノンラーのような形をした小高い山があった。

異郷で一瞬の懐かしさを感じさせる山容だった。
仲麻呂がハノイに赴いたときは「天の原・・・」と詠んでから10年と経っていなかった。

笠を被せたような山を眺めて、「春日なる三笠の山」に見立てたことはなかったのだろうか。あっても不思議ではないような気がした。

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