アジア新風土記(115) ブラッククリスマス





著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。




香港の竹棚を初めて見たのは30年以上も昔だ。
通りを歩いていて10階以上もあるビルの周りに竹で棚をつくり、日本で言えばとび職の人たちが軽々と作業する姿に驚いたことがある。
竹にこういう使い方もあるのかと小さなカルチャーショックを受けた。
竹棚は毎年の春節(旧正月)に生花の飾り棚になったり、仮設小屋の材料になったりするなど、人々の日々の営みのなかに生きていた。



竹棚は香港の「文化」だと語る人もいる

竹棚は古くは漢代まで遡り、香港には広東省の職人が持ち込んだともいわれる。
軽くてしなやかな竹材が家屋の修理などの足場に最適であり、東南アジアでもこの工法が使われたと聞くが、香港以外では見たことがない。
竹材は竹齢が3年から5年を経過したもので、長さは6メートルほどだ。少なくとも3か月以上の自然乾燥が必要という。



記憶の片隅に残る竹棚は新界地区・大埔のマンション火災で一挙に蘇る。
2025年11月26日、密集して8棟が建つ高層住宅で出火、7棟までが燃えた。
住人ら159人が犠牲になり、なお31人が不明という大惨事だった。

当初、修繕工事中の竹棚が火の回りを早めたといわれた。その後の調査では外壁の防護ネット、各部屋の窓を覆っていた発泡スチロールなどが主因とされたが、可燃性が強いといわれる竹棚もまた延焼を早めた一因だった。
過去にも火の手を広げた火災があり、香港特区政府は3月から公共工事では足場を組む時に半数の金属製使用を求めていた。


火災現場近くの公園は市民らの献花で埋まり、付箋、メモ用紙などに書かれた哀悼メッセージが柱などに貼られた。ボランティアの人たちが水、インスタントラーメン、毛布などを持ち寄り、被災者の救済活動にあたった。
しかし、香港政府は数日後には民間のボランティア活動を制限、支援物資などの撤収を命じる。政府が認める団体に限っての支援を徹底させるためだ。管理下にない団体などの活動が反政府運動に広がることを警戒しての措置といわれる。



中国政府の出先機関、国家安全維持公署は29日、災害を利用して混乱させる行為は香港国家安全維持法(国安法)に基づいて罰するとの談話を発表、同日には火災の責任追及を政府に求めるネット署名の主催者1人が扇動容疑で逮捕された。署名活動は1万人以上の賛同を得ていた。
30日にはこの逮捕に関する投稿を転載した元民主派区議が逮捕されたほか、ボランティア活動に参加した女性2人も拘束された。



香港政府は安全管理問題、工事過程での不正などを調べる独立委員会設置の方針を表明するとともに工事関係者ら15人を業務上過失死容疑で逮捕したが、マンション火災は単なる大事故から社会問題になったとも言えた。
市民活動への過剰な取り締まりは、「静かな社会」がなにかあれば再び爆発しかない火種を抱えているということか。ひっそりと息を殺している香港社会の声なき悲鳴が一気に噴き出すことを怖れているのか。


マンションの黒い焼跡が消えないまま10日ほど経った12月7日、立法会(議会、定数90)の選挙が行われる。
21年の前回選挙は「愛国者」を立候補条件としたことで民主派の人たちが締め出され、当選議員は中間派1人を除いて親中派で占められた。
今回は中間派政党が立候補を見送り、当選者全員が親中派になった。
民主派政党は香港返還前に結成された民主党が25年12月14日に解散を決定、6月には社会民主連線も解散するなど事実上消滅した。

「BBC NEWS JAPAN」は周嘉発・社会民主連戦副主席の

「もはや政党を運営すること自体が安全ではないと思う。香港では政治的権利がほぼ完全に失われた」

という言葉を伝えている。(2025年6月30日)



立法会直接選挙枠20議席の投票率は31.9% 。投票時間の2時間延長、投票者へのサービス券配布などの向上策もあって4年前の30.2%を辛うじて上回ったが、3%超と報じられた無効票、白票の多さとともに人々の関心のなさ、あきらめは明らかだった。
政府の政策に「イエス」を出すだけの立法会に「投票拒否」によって抗議するという気持ちのほかに、大惨事の直後で人々がまだ故人の冥福を祈っている最中(さなか)に、「無意味な一票」に投票所まで行く気にはなれないということもあったかもしれない。


22年1月の『アジア新風土記20・香港立法会選挙』に「行く年に多くの人たちの心を晴れやかにさせる出来事はなにもなかった。暗い絶望感を抱かせることの追い討ちばかりだった気もする」と書いた。4年後のいまもまた、同じ思いを書く。



香港の歴史を辿り、いまのような息苦しく閉塞感に包まれた時代をみる。
英領植民地に暮らした人たちは政治参加こそ難しかったもののレッセフェールと呼ばれる自由放任政策によって自由に生き、思い思いの活動を続けてきた。
ただ一つの例外は太平洋戦争中の日本軍占領時代ではなかったか。


立法会選挙の翌8日は、日中戦争で中国大陸を侵攻していた日本軍が広東省から香港・新界地区に攻め入った日にあたる。
1941年12月8日、日本軍は香港と同時にハワイ・真珠湾を攻撃、マレー半島東海岸のコタバルにも上陸、戦線を中国各地から東南アジア、太平洋へと拡大させていった。84年も前のできごとであり、香港が日本軍に占領されていた事実を身をもって知る人は少なくなったかもしれない。


新界地区のトレッキングコースに残る英国軍のトーチカ跡

日本軍の攻撃に英国軍は新界、香港島の防御ラインを次々と攻略され、18日目の25日に無条件降伏する。
香港の人たちはこの日を「黒色聖誕節(ブラッククリスマス)」と呼んだ。
香港は「香島」と改名され、市民の強制退去、海南島の鉱山開発への労働者派遣など過酷な軍政は日本敗戦までの3年8か月続く。
人々に「沈黙」を強いた時代に現在を重ね合わせてみる。他国軍の占領と自国政府の締め付けという全く異なる状況下の比較に意味はあるのかと自問しながらも、社会の空気を想像する。



ペニンシュラホテル336号室で降伏式が行われた







香港のクリスマスはいつの年も華やかだが・・・

大通りやオフィスビルはすでにクリスマスのイルミネーションに彩られている。
被災者へのボランティア活動が制限され、原因究明の声も抑え込まれるとき、クリスマスを素直に楽しむ人たちはどれほどいるのか。
眩い光の中に沈む街に、暗然たる思いが残った。

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