アジア新風土記(103)李在明・韓国新大統領の時代





著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。




2025年6月3日、韓国で大統領選が行われ、進歩(革新)系最大野党・共に民主党の李在明前代表が保守系与党・国民の力の金文洙前雇用労働相を破って当選した。

李氏は当選確定後直ちに第21代大統領に就任、国会議事堂で「すべての国民を包み込み、奉仕するみんなの大統領になる」と述べ、24年12月の尹錫悦前大統領による「非常戒厳」宣布以来、対立・分断した社会を解消する決意を表明した。






中央選管発表による投票率は79.4%。李氏は1728万7513票(49.42%)、金氏は1439万5639票(41.15%)獲得する。
金氏と票を分け合う形になった保守系の改革新党・李俊錫氏は291万7523票(8.34%)だった。


最大の関心は民主社会が当たり前と思えた韓国に突然現出した非常戒厳を国民がどう見極めるかということにあった。
非常戒厳批判に終始した李氏の5割に届かない得票は、有権者が圧倒的な得票によって「ノー」の意思を表したとは言えないものだった。

非常戒厳宣布に至るまでの共に民主党の強引な弾劾攻勢に批判的な人たちが支持を鈍らせた結果ともいえる。

尹氏を支えてきた保守系は金氏と李俊錫氏の合計得票が李氏とほぼ同じだったが形勢逆転とまではいかなかった。
保守系地盤の根強さを示したものの、保守系支持者にも民主主義の根幹を揺るがす行為をまず否定すると考えた人たちが少なくなかったということかもしれない。

進歩系と保守系の得票の均衡はしかし、平和な時代の戒厳令という衝撃が一時の衝撃で終わり、すでに過去のものになりつつあるのではという思いを抱かせた。




李氏は韓国南東部の慶尚北道出身。
実家は貧しく小学校卒業後、苦学してソウル・中央大法学部に進み、弁護士となる。10年にソウル近郊の城南市長に当選、京幾道知事を経て22年に党代表に就任、前回大統領選では尹氏に僅差で敗れる。戸籍上は1964年12月生まれの60歳だが、実際は前年に生まれたとされ、メディアによって分れる。


李新大統領の時代はまだ、輪郭さえも定かではない。
選挙戦で具体的な政策に訴えることが少なかったこともその性格を曖昧なものにする。


国会の勢力図は共に民主党が300議席中170の議席を占め、他の進歩系政党と合わせて絶対的な優位を保つ。ほとんどフリーハンドで政権運営に携われる李氏は87年の民主化運動のころは司法修習生だった。
共に民主党の主だった人たちが民主化に何らかの役割を果たしたと自負する中で、運動に直接関わったことはないといわれる。
理念先行の傾向が強い同党にあって、彼の経歴は今後の現実路線を促すことになるのだろうか。



李氏の国民統合へのステップが順調に進むかは非常戒厳をどのような形で検証していくかにかかっている。「銃剣で国民主権を奪う内乱は二度と繰り返してはいけない」と語り、徹底した真相解明と相応の責任を問うという厳しい姿勢は、その度合いによっては分断をさらに深めかねない。

李氏が公約に掲げた司法改革も大きな問題を孕んでいる。



新政権が発足した2025年6月4日、国会法制司法委員会の法案小委員会は共に民主党から出された大法院(最高裁)の大法官(裁判官)を現在の14人から30人と大幅に増員する裁判所組織法改正案を通過させた。

大法官は大統領が大法院長推薦者らを国会の同意を得て任命するが、主導権はあくまで大統領にある。法案が発効されれば李氏による恣意的な大法官任命の懸念が生じる。法制司法委員会は5月には大統領在任中は自身に係わる裁判の停止を可能とする刑事訴訟法改正案も議決している。一連の制度改革によって三権の分立がなし崩し的に崩壊する恐れはないのか。


李氏は現在、5つの刑事事件を抱えている。
大法院は5月1日、その一つである公職選挙法違反(虚偽の事実の公表)について、二審の無罪判決を破棄し、ソウル高裁に差し戻した。
李氏は22年の大統領選に絡み、都市開発に関する疑惑について虚偽の発言をしたとして一審で懲役1年執行猶予2年の有罪判決を受け、二審のソウル高裁は25年3月に逆転無罪を言い渡している。大法院の判断は発言の一部が虚偽事実の公表に当たるとしたもので、差し戻し審では改めて有罪となる見方が強かった。

高裁は大統領選への影響を考慮する形で公判を6月18日に延期していたが、9日になって再度延期を発表する。現職大統領の不訴追特権は進行中の刑事事件にも適用されると解釈したとみられ、在任中に公判が開始される見込みは極めて低くなった。


国際社会との係わりも再び動き出す。
国民の関心が高い経済は米国が4月から実施した25%の相互関税の影響が大きく、産業通商資源部によると5月の対米自動車輸出は25日までに前年同月比で32%も減少した。中央銀行である韓国銀行は5月29日、25年の実質国内総生産(GDP)成長率見通しを「ゼロ成長」である0.8%と発表する。対外貿易に有効策を打てなければ景気浮揚も難しくなる。


安全保障戦略も厳しい道が待ち構えている。

共に民主党の北朝鮮へのスタンスは国民の力に比べて宥和的ともいわれてきた。
李氏も関係修復への意欲を覗かせ、軍事境界線付近での韓国軍による拡声器の宣伝放送中止を指示した。

南北関係は北朝鮮が24年10月に韓国を「敵対国家」と規定した憲法改正を行うなど、ほとんど断絶といってもいいほど悪化している。
北朝鮮はウクライナ侵攻のロシア軍に兵士らを派遣するなどロシアとの親密度を増している。韓国が米日及びヨーロッパの国々などの自由主義グループの一員であることをどこまで明確にすることができるのか。



李氏は就任演説で日本との関係について「国家間の関係は政策の一貫性が特に重要だ」と述べ、尹政権時代の緊密な関係を維持し、徴用工問題の解決策などを継続する考えを示した。
「個人的な信念だけを一方的に強要したり貫徹したりすることは容易ではないのが現実だ」とも語った。「容易ではない」という表現は、状況の変化によっては「難しいが可能だ」と受け止めることもできる微妙な言い回しのようにも思える。


25年6月22日、日本と韓国は基本条約の締結による国交正常化から60年を迎える。新大統領のメッセージに今後の両国関係の先行きをみたい。

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