アジア新風土記(64) 香料諸島




著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。
























インドネシア東部、バンダ海の北に位置するマルク諸島の中心にアンボンがある。
ジャカルタから2750㎞離れたマルク州の州都は、ポルトガルを先駆としたヨーロッパ列強がクローブ(丁字)ナツメグ(ニクズク)などの香辛料を求めた大航海時代、その集散地の一つだった。
マルク諸島はモルッカ諸島、香料諸島と呼ばれていた。


クローブの木


アンボンの人たちの生活の一端をガムラン音楽が流れる短編『ラサ・サヤン』(NHK名曲アルバム)に見る。
人々が口ずさむラサ・サヤンのように、この地方の歌はヨーロッパの船乗りたちがもたらした民謡、讃美歌の影響を受けた特有のメロディー、リズムを持つともいわれ、歌と踊りを愛する人たちに歌い継がれてきた。

人々の暮らしは海とともにあり、漁船から男衆が籠一杯の小魚を運び出し、女衆は小魚をそのまま路上に並べて市をつくる。
日曜の朝には「アンボン・マニセ」(アンボン美人)らが教会に三々五々足を運んだ。
ラサ・サヤンを聞きながら、ヨーロッパとアジアの出会いについて改めて思いを馳せる。


ガムランを楽しむ人たち

ポルトガル南部のシネスという港町で生まれたヴァスコ・ダ・ガマは1498年、アフリカ大陸の喜望峰を回ってインド亜大陸西海岸のカリカットに辿り着く。
インド航路の発見はポルトガルにアジアへの扉を開かせ、スペイン、オランダ、そして英国が続いた。

ヴァスコ・ダ・ガマの航海はポルトガル王がスペイン王派遣のコロンブスによる西インド諸島発見に触発されたともいわれ、背景には当時、金、銀と同等あるいはそれ以上の価値を持っていた香辛料の獲得があった。

英国の作家・ジャーナリストのジャイルズ・ミルトンは『スパイス戦争』(松浦伶訳、朝日新聞社、2000年)に
 

「中世を通じて、力をもってスパイス貿易を支配したのはヴェネツィアであった。ナツメグ、クローブ、胡椒、シナモン、すべてはアジア各地からコンスタンチノープルの市場に集まり、ヴェネツィア商人に買い占められ、地中海を西に送られていった。そして何倍もの値段で北ヨーロッパの商人に買われていった」

と書いた。


ポルトガルはインドへの海路の発見から13年後にマレー半島のマラッカ王国を攻略、香辛料を求めた商人、「未開の地」の伝道を目指した宣教師のアジア進出が本格化していった。

1526年にアンボン島を占領、モルッカ総督が島の南部にアンボンの街を築く。
島民にキリストの教えを説いた一人にイエズス会のフランシスコ・ザビエルがいた。アンボンでの布教から3年後の1549年、日本の鹿児島に上陸する。

そのポルトガルも新興国オランダの前に香辛料貿易の権益を奪われ、バンダ海一帯から姿を消した。

香料諸島が原産のクローブはいまでもインドネシアが世界全体の7割を超すシェアを誇る。2021年の生産量は13万7600トンになったという(国際統計・国別統計専門サイトGLOBAL NOTE)。



アンボンを初めて訪れたのは1999年5月だった。
スハルト大統領退陣から1年が過ぎていた。

街はクリスチャンとキリスト教と相前後して入ってきたイスラム教の信徒による宗教紛争の最中だった。体制崩壊後のジャカルタの混乱が地方に拡散していき、収拾がつかなくなっていたとも、インドネシアの変革を望まない旧勢力が煽ったともいわれた。



アンボン湾


ジャカルタからのフライトは3時間半ほどだった。
アンボン島は中央にアンボン湾が大きく食い込み、空港は湾の北側にあった。
南側の市街地までは迂回しなければならない。
タクシー運転手は朝からの住民同士の衝突で道路が封鎖されたと答えたが、説得して飛び乗る。




アンボンは繁華街がすっぽりと空いていた。
壁は黒く煤け、窓は壊れたままだった。
レンガの瓦礫があちらこちらに散在していた。
夜の通りに人影はほとんどなかった。
暴動が起きるまではだれもが仲良く暮らしていた。
民族、宗教が違っても「ペラ」と呼ばれる信頼関係があった。
人々の反目はその結びつきを弱める。
モスレムの車はキリスト教徒が多く住む地区には入らず、日曜日にミサを捧げる人は三分の一以下に減った。街はずれにはクローブの木が何本かあった。
小高い丘に登るとアンボン湾がすぐそこに見えた。静かな海だった。


抗争はその後もイスラム教徒とキリスト教徒の地域に分れたまま断続的に続いた。親愛の気持ちという意味のラサ・サヤンをテーマにした「名曲アルバム」の穏やかな島と人々の暮らしはいま、どうなっているのだろうか。





アンボンからバンダ海を挟んで南西600キロほどのティモール島・オエクシも、1515年にポルトガル人が上陸した。
現在のティモール島は東ティモールとインドネシア・西ティモールに分かれるが、西ティモールの北部海岸にあるオエクシは東ティモールの飛び地である。
ポルトガルはオランダが島の西側を領有したときも、最初の上陸地を手放さなかったといわれている。

オエクシのことはインドネシアを旅するまでは知らなかった。どんなところだろうという思いに、ティモール島西端のクパンから車を走らせたことがあった。
アンボンを訪れてから間もないときだった。ドライバーに何もないところになぜ行くのかと質問され、返答に困ったことを思い出す。


クパンを早朝に出た車は最初こそ熱帯の木々の中を走っていたが、次第に山肌が露出した風景に変わっていった。分水嶺を越え北に流れる川沿いの道は行き交う車もほとんどない。わずかに道端に野菜を並べただけの露店ができ、近在の人たちが集まっていた。途中には検問所があったが人はいなかった。


オエクシへの道筋に小さな市があった。買い物よりも世間話に花が咲いたようだった

オエクシのパンデマカサールは東ティモール独立に向けた国連の暫定統治活動がすでに始まり、通りには「UN」のマークをつけた車が走っていた。静かな町の前に広がる浜辺と海は眩しく、子供たちが波打ち際で遊んでいた。


オエクシの母子





オエクシの浜から見る夕日に時を忘れる


町の西にあるリファウの浜にキリストの座像があった。抱きかかえているのは信者だろうか。近くに小さな砲台も残っていた。地元の人たちがイースターなどにはお祈りに来ると聞いた。この地に福音を伝えたのはだれだったのか。ザビエルはバンダ海を越えてこの地まで来たのか。想像が膨らんでいった。


独立後は首都ディリからフェリーが週2便来る。キリスト像の周りも賑やかになったのだろうか

SHARE シェアする

このエントリーをはてなブックマークに追加
  • 高文研ツイッター

  • 日本ミツバチ巣箱

  • 紀伊國屋書店BookWebPro

  • 梅田正己のコラム【パンセ】《「建国の日」を考える》

  • アジアの本の会

  • 平和の棚の会

  • おきなわ百話

  • 津田邦宏のアジア新風土記