アジア新風土記(62)メコンデルタ




著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。






「メコン」という言葉に悠々として嫋(たお)やかな流れを想像するのは私だけだろうか。

中国大陸の長江、黄河、インド亜大陸のガンジス川、インダス川など大河といわれる川は多いが、アジアの豊穣さへの思いを膨らませてくれる川は他にはないような気がする。
その豊かさはメコンデルタの穀倉地帯が目の当たりにしてくれる。



中国のチベット高原を源とするメコン川は雲南省からタイ、ミャンマー、ラオスの国境地帯を抜け、ベトナムとカンボジアから南シナ海に注ぐ全長約4800キロの大河だ。

ベトナム語では「ソン・クー・ロン(九龍川)」と呼ばれ、プノンペンの南で東のティエンザン川(前江)と西のハウザン川(後江)に分かれてメコンデルタを形成する。

メコンデルタはベトナム側だけでも約3万9000平方キロに及ぶ。川は本流から支流、さらにまた支流へと奔放に走り、大小無数の運河がその流れを縦横に繋いでいく。

水田は日本のような整然とした畔を見ることは少なく、運河と沼と田が混然としていた。収穫期になれば垂れた稲穂が波のうねりのように限りなく続いていく。




メコン川(ティエンザン川)はゆったりと流れていた








メコンデルタの中心地カントーはハウザン川の南西岸にあり、古くからコメの集散地として知られていた。ホーチミンからは西に約160㎞ほどだ。

1998年の夏、カントーの市街地から南の幾筋もの流れが合流したところに水上市場があると聞いた。

早朝の5時前、チャーターした小舟が着いたときはすでに多くの舟が集まっていた。コメ、野菜、果物、魚介類から雑貨まで、日々の暮らしに必要なものはほとんどすべてが揃っていた。夜はまだ明けていなかった。



朝靄の中、水上市場に向かう





水上市場


男たちは青パパイヤ、バナナ、キャベツ、タマネギ、ココナッツ、サトウキビなどを喫水ぎりぎりまでに載せた舟の艫(とも)に立ち、手前で交差させた2本の櫓(ろ)で自在に舵を切っていた。女たちの櫓の扱いもまた巧みだった。

男も女もヤシの葉でできた「ノン」という笠を被っていた。

野菜を求めて、果物を求めて、買い手の舟が近づき、舳先同士がぶつかると飛沫がわずかに上り、波が立った。だれもが揺れなど意に介さず、商いが続いた。

合間を縫うようにフランスパンを売る舟があった。20本以上もの長い竹を載せた舟がいた。近くでは老人が漁網を何度も何度も水面に落としていた。



水上市場


近在の村からはコメを満載した長さ10メートルもある船が来る。
一艘に5トンから6トンのコメを積み込む。

川岸に着くと沖仲士が1袋40キロ以上はあるコメ袋を倉庫へと運び込んでいく。多くはホーチミンに運ばれるという。

一人が背にコメ袋を担ぎながら「やはりコメだね。パンもあるがすぐに腹が減ってしまう」と言った。

市場を離れると「ソー」という笊(ざる)にコメを山盛りにした舟に出会った。

船溜まりにコメを買い求める小舟が近づき、近くの農家からは主婦らが川辺に下りてきた。
コメを売る舟は朝の7時から昼過ぎまで10キロほど走り、200から300キロを捌くという。



水上市場



小さな細い運河を辿りながら農家の人たちを探した。

ニッパヤシの壁とスレート屋根の家の前で農夫らは
「コメが足りなくなることなど考えられない」
「ベトナム戦争のときは一期作でも飢えで苦しんだことはなかった」と話してくれた。現在は二期作か三期作になって収入は増えた。

一方で農薬、肥料などの経費もかかり、イネを狙うネズミも増えた。
コメの収穫が少なくなって、野菜や果物に転換したり、田んぼを養魚場にしたりする人も出ている。



運河にコメを売る小舟がいた

ベトナムのコメ生産量は2019年、日本の4倍以上の約4300万トンだった。肥沃なメコンデルタで半分以上が生産されているともいわれる。
輸出も約24億ドルに達し、世界の13%を占める。
2021年、農林水産省「ベトナムの農林水産業概況」




デルタの田はどこまでが水田だろうか




メコンデルタは南シナ海との高低差が少なく、乾季には水量が減って地中の塩が噴き出してくる。

人々は昔からこの塩と小魚を甕に入れて魚醬の「ヌックマム」を作り出してきた。味は各家庭で異なり、食事にはなくてはならないものだった。


最近の塩害被害はしかし、かつてのような小規模なものではなくなってきた。

干ばつなどによる流量の減少で潮位が上り、海水による「塩水くさび現象」が増えている。海水は淡水より比重が重いため、川の水の下に潜り込んでくさび状に遡上してくる。





ベトナム農業農村開発省災害管理総局の報告書によると、19年から20年にかけての干ばつと塩害によって冬春米生産で33万2000ヘクタール、果樹生産で13万6000ヘクタールが影響を受けた。
(21年5月10日、高橋塁・東海大政治経済部教授『メコンデルタの干ばつとベトナム農業の新展開(世界経済評論IMPACT)』)


塩害は気候変動に伴う干ばつだけが原因ではなく、中国が雲南省の瀾滄江(メコン川の中国名)流域に建設した少なくとも11のダムが大きな要因だという指摘もある。
雨季に貯水して、乾季に放水することで発電に必要な一定流量を確保しているからだ。


ダムの影響はメコンデルタにとどまらない。

水量の多いはずの雨季に水が減り、乾季に増えるという状況は、流域に暮らす人たちの生活パターンを変えていく。
2023年4月1日のロイター電は、タイ北部で乾季に「カイ」という川藻を集めて生計を立てていた人たちが水位上昇によって収穫が難しくなっていると伝える。

カンボジアのトンレサップ湖は通常、雨季にはメコン川からの流入で面積が最小期の4倍にもなるが、2019年の流入量は2000年ごろの平均水準の約4分の1に減少したという報道もある。(21年2月22日AFP電)




タイ、ラオス、ベトナム、カンボジアの下流国4か国によるメコン川委員会(MRC)は23年4月、干ばつ、水量の急激な変動などが地域に悪影響を及ぼす可能性を認識するというビエンチャン宣言を採択する。
中国は「国際科学界とメコン川委員会は、瀾滄江における階段式発電所は流量の安定を維持するのに役立つと考えている」(外交部報道官)との立場を崩さない。(20年12月14日、中国国際放送局ウエブニュース)。

中国のメコン川上流部の「管理」を警戒する米国は2020年9月、流域5か国との「メコン・米国パートナーシップ」初会合を開く。
水資源データ共有などの開発事業への1億5360万ドルの拠出を表明、影響力強化をはかる。


メコン川の「水資源」は利害の絡む関係国が多く、米中対立という新たな要因も加わった。問題は今後さらに複雑化していく。

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