アジア新風土記(61)台湾・金門島




著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。




台湾の蔡英文総統が2023年8月23日、金門島で行われた「金門砲戦」の慰霊祭に出席した。
ニュースを見ながら、かつて訪れたこの島のことを思い出す。
そして台湾に暮らしているとき、新聞、テレビが伝える報道などから、中国との境界に位置する島について考えたことを思い起こした。




1958年の「砲戦」から65年のこの日、蔡総統は戦没者の墓に献花、遺族らを訪問後、将兵、従軍経験者らに「当時の勝利がなければいまの台湾はない」「台湾海峡の平和と安定に力をつくす」と語りかけた。
戦後の中国共産党と中国国民党による国共内戦で両軍が戦火を交えた「戦場」で、過去の勝利を謳うのではなく「独立した台湾」の存在を国際社会と中国に改めてアピールしたように思えた。




「八二三台湾戦役勝利紀年碑」(新北市の八二三紀念公園)




「国軍反砲撃作戦」のレリーフ(新北市の八二三記念公園)












金門島は大金門島と小金門島に分かれ、面積は約150平方キロ。
「金門県」という行政区域に属し、立法委員(国会議員)一人を選出する。台湾本島は200キロ以上離れているが、対岸の厦門(アモイ)までは10キロもない。
晴れた日には厦門の街並みが良く見える。中国大陸の離島であり、歴史も文化も福建省のそれと変わりなく、日本の植民地時代も統治外の土地だった。

国共内戦は金門島も例外ではなかった。1949年10月25日の大金門島北部・古寧頭の戦いは、中華人民共和国の成立から1か月も経たないときに起きた。
人民解放軍の上陸作戦は国民党軍と支援米軍の反撃で失敗する。国民党・国民政府(中華民国)蒋介石主席の要請に応じた旧日本陸軍の軍事顧問団も作戦を指揮した。

この年の12月には蒋介石が成都から台北に逃れる。
台湾は日本の敗戦後、国民政府が戦勝国として実効支配していた。
解放軍が金門島の戦いに勝利し、一気呵成に台湾本島に向かっていたら、彼の台湾入りはなかったのかとも思う。

1950年1月、米国のアチソン国務長官が防衛ラインはアリューシャン列島から日本を経てフィリピンに至る線と述べ、台湾、朝鮮半島を除くとする演説を行う。
東アジア情勢が中国共産党に有利に働いていたとき、「台湾解放」を頓挫させたのはアチソン演説から5か月後の朝鮮戦争勃発だった。
福建省に集中していた解放軍は北朝鮮軍支援に動かざるを得ず、加えて米国は共産主義の浸透を阻止するために「台湾防衛」へと外交政策を変更させる。



金門砲戦は朝鮮戦争休戦から5年後の1958年8月23日夕に始まった。解放軍は埠頭、空港などに1日で5万発を超える砲弾を撃ち込む。
9月に入っても激しい砲撃に国民政府軍が応戦するという戦いが続き、10月5日にようやく止む。44日間の攻撃で投入された砲弾は47万発以上といわれる。
散発的な砲撃はその後も繰り返されたが、1979年1月の米中国交正常化に伴い中止された。


金門島は台湾の大陸反攻最前線基地として、戒厳令が台湾本島で1987年7月に解除された後も5年間続いた。しかし、1990年に李登輝総統が中国との敵対関係終息を表明するなど独自の道を歩み始めたことで、島もまたその役目を終えていく。

金門島は1995年、金門国家公園に指定される。
台湾の新たな観光地は台湾本島からの観光客を呼び込み、2001年には金門島と厦門を結ぶ定期便が開通、大陸から訪れる人たちも増えた。
2018年8月には厦門からの給水を受ける海底送水管が開通、金門島の生活、経済には大陸との友好な結びつきが欠かせなくなった。


1991年の多国籍軍によるイラク空爆が開始された直後、金門島を見る機会があった。
戒厳令下の「戦地」は舗装された道路が縦横に走り、花崗岩をくり抜いた弾薬庫、地下壕の入口が見え隠れしていた。畑、空地には空挺部隊阻止のコンクリート杭が20メートル間隔で3~5メートルほどの高さに打ち込まれている。先端には「五寸釘」ほどのくぎが3本あった。
駐屯部隊の兵士らの休暇はすべて取り消され、一人は「湾岸戦争はテレビでよく見る。自分が実際に戦争に加わったらと思うとたまらない」と話してくれた。



戒厳令下の金門島は至る所に歩哨が立っていた(1991年撮影)




金門島一番の繁華街には若い兵士が目立った(1991年撮影)





30年以上も経ったいまの金門島をルポなどから拾う。

台湾と大陸からの観光客で賑わう島の商店街で中国の「五星紅旗」と台湾の「青天白日満地紅旗」が同時に掲げる商店も見かけたという朝日新聞・西本秀記者の記事からは、戒厳令時の緊張感は伝わってこない。
解放軍の動きを監視していた観測所、大陸を砲撃した陣地などは一般公開され、空砲による演習に観光客が歓声を挙げる。どこからみても平和な島の姿だった。(2018年9月6日、朝日新聞GLOBE+)

旅行作家下川裕治氏は島の中心部地下5メートルほどの「坑道(防空壕兼避難路)」の無料ツアーを紹介、中国からの攻撃があれば繁華街の人々はこの坑道に入るのかと書く。
食堂の主人から「中国は金門島には攻めてこないよ」という言葉を聞き、島の大多数は福建人と同じ意識を持ち、台湾で生まれ育った台湾の人たちとは違うという考え方を引き出していた。(2023年5月9日、AERAdot.)

台湾で10年ほど前、友人らに金門島のことを聞いてみたことがある。
ある人は台湾が「中華民国」として中国と対峙する象徴の島だと話してくれた。
ある人は現在の台湾にとって必要不可欠というほどの島ではないと言った。
金門の人が大陸に帰りたいなら帰っても問題はないという突き放した考えの知人もいた。
金門島から大陸への復帰運動が生まれるという意見はなかった。
その理由に台湾の「自由」を挙げる人がいた。

その自由とは西本ルポにある五星紅旗と青天白日満地紅旗を同時に掲げられる自由なのではないか。
下川氏の質問に応じた「食堂の主人」もまた「大陸に戻る」ことまでは考えていないのではないか。

台北の街で市井の人たちとつきあいながら、自由な社会を求める強い気持ちを肌で感じるときが多々あった。
あるときは社会問題のテレビ討論に、あるときは選挙の応援演説に響くものがあった。
戒厳令解除後の人々が自由を享受できるようになった日々は、38年間続いた戒厳令の年月にもまだ届いていない。
社会は暗黒の時代をいまも記憶に留める。いくつかのルポを読みながら、金門島の人たちも同じ心なのではないかという思いが残った。




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