アジア新風土記(60)タイの民意なき首班指名



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。





2023年8月22日、タイ国会は新首相にタイ貢献党のセター・タウィシン氏(61)を選出した。5月14日の総選挙(下院)から3か月後の首班指名だ。王室改革などを訴えて第1党になった前進党はピター党首の首相選出に失敗、有権者の声は無視された。



総選挙後の政治的空白が続く中で、第2党のタイ貢献党は親軍政党の国民国家の力党、タイ団結国家建設党との連立に踏み切り、第3党のタイ名誉党など8政党も加わった。総選挙で選ばれた下院500人と上院250人による合同首班指名投票は、貢献党のセター候補が過半数を大きく超える482票を獲得する。国軍、親軍政党に近い上院議員の「票」が決め手になった。
2014年の国軍クーデターによって実権を握った軍事政権は新憲法制定によって上下両院議員の合同首班指名というシステムをつくり、2019年の民政移管直前に上院議員を任命していた。



新首相は不動産開発会社社長という経歴を持つ。リベラルな考え方といわれ、ワチラロンコン国王の承認を得た後、「不平等と困窮を引き起こしている様々な課題に取り組む」と抱負を述べた。前進党は現与党が加わる政権は選挙で変化を求めた民意に反する、として不支持に回った。



貢献党の前身はタクシン元首相(74)が率いたタイ愛国党だ。愛国党は2006年に軍事クーデターによって政権が崩壊、2014年にも元首相の妹インラック氏を首班とする政権がプラユット陸軍総司令官指揮下のクーデターによって瓦解した。過去二度も国軍によって政権の座を奪われただけに、後継政党としても反国軍の立場を鮮明にしていた。親軍政党とも相容れない関係は変わらず、総選挙ではその影響力排除を掲げて支持を広げてきた。


親軍政党との連立に踏み切った理由はなにか。政治的混乱を収拾するためという大義か。しかし、党のイメージダウンは大きかったはずだ。国軍の影響力を払拭できず、軍政下に制定された憲法の改正への動きも親軍政党の抵抗によって難しくなるだろう。漸進的改革を表明していた刑法112条の不敬罪改正問題も各党は反対の立場を示しており、頓挫する公算は大きい。一度は前進党との連立を模索していただけに、180度近い政策転換は支持者らに「首相」の座を得るための背信と映るのではないか。


貢献党のバックボーンとしてなお存在感を放つタクシン元首相の帰国・恩赦を実現させるためには政権の中枢にいることが不可欠だったからか。






新首相が選出された8月22日、タクシン元首相は15年振りに帰国する。バンコクのドンムアン空港には東北部イサン地方から熱烈な支持者らが駆けつけた。元首相は汚職などの罪で計10年の禁固刑が確定した後、2008年から国外に逃亡していた。刑期は一部重複しているとして8年に短縮され、収監後は胸の痛みなどを訴え警察病院に移送された。国王に恩赦を求めるとみられるが、このタイミングでの帰国は貢献党を中心とする連立政権の誕生で容認の空気が強まったと判断したからか。同党が親軍政党などに妥協する代わりに恩赦の「合意」を取り付けたという見方もある。ただ、実現しても以前のような求心力を発揮できるかはわからない。


前進党の政権への道は遠かった。王室改革などが上院保守層の支持を得られなかったことが最大の敗因だが、憲法裁判所がピター党首がメディア株を所有したまま立候補した問題で議員資格を一時停止したことも響いた。司法機関は軍事政権、親軍政党の強い影響下にあるともいわれ、擁立を躊躇する議員は少なくなかった。下院の3割を超える151議席の「野党」として、今後の政局にどれほどのインパクトを与えられるか。2019年の前回総選挙で前進党の前身である新未来党が第3政党に躍進したが、タナトーン党首が立候補時のメディア株保有で議員資格を剥奪されている。ピター党首も似たような状況に追い込まれているだけに、同じようなことが再び起こるかもしれない。


タイの抱える問題は王政改革問題だけではない。新首相が指摘するような不平等社会はバンコクという巨大都市と地方の格差として顕著に現れている。

タイ国家経済社会開発委員会によると、2020年の地域別1人当たりGDP(国内総生産)は、バンコク及び周辺県の43万5000バーツ(約170万円)に対してイサン地方などでは8万6000バーツと約5倍の開きがある。タクシン元首相がいまも根強い支持を得ている背景には、政権時代に低額の医療制度確立、村落基金設立など地方に目を向けた政策の実現がある。都市部の政治家にほとんど顧みられなかった人々を「自分の1票が政治を変えられる」という気持ちにさせたことは確かだ。



大麻の蔓延も社会問題になりつつある。タイ政府は2022年6月、医療・健康増進を目的に麻薬リストから大麻を除外した。一般家庭でも登録すれば栽培できるようになり、すでに100万人以上が届け出ている。街の大麻ショップは半年で7500軒を超え、若者らが気軽に入手できるようになった。医療現場からは過剰摂取による健康被害を懸念する声が聞かれる。大麻除外を積極的に推進したアヌティン副首相兼保健相は、今回も政権与党に入ったタイ名誉党の党首だ。医療用に厳しく限定すべきだとしてきた貢献党だが、名誉党の意向を受けて大麻政策の現状維持へと方針を変える可能性はある。


タイは国民の9割以上が仏教徒だが、南部を中心に5.5%ほどの人たちはイスラム教を信じる。深南部のヤラー県などでは8割近くがイスラム教徒だといわれる。分離独立、自治権拡大を目指すイスラム武装勢力による放火、爆発事件も続いている。プラユット前政権とは和平協議で合意したものの進展はない。新政権の対応によっては武装勢力が再び活発化、先鋭化する恐れはある。


総選挙後の混迷は国軍の影響力排除と王室改革を訴えた人たちにとっては受け入れ難い「現実」だった。タイ国立開発行政研究院の調査では親軍政党の与党入りに断固反対が約48%を占めた(2023年8月22日、朝日新聞デジタル)。投票結果が新たな政権づくりに結びつかないシステムへの有権者の失望感、反発、特に前進党の急進的な政策を支持した若者らの怒りは、どのような形で社会に跳ね返ってくるのだろうか。

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