アジア新風土記(44) 中国・麗江への道



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。











中国・麗江の旅は、1月中旬の旧正月までにはまだかなり日のあるころだった。
あたりは暦を先回りしてすでに春の気配に満ち溢れていた。

旅は雲南省の省都・昆明をチャーターした車で早朝に出発することから始まった。
西に約400キロ離れた大理に向かう。
赤茶けた大地の所々に点在する田は青く、道路わきの木々は若芽が顔をのぞかせていた。
行き交う車はトラックが多く、ドライバーらを当て込んだ簡易食堂がいくつも店を出していた。
立ち寄った白壁に「八方来客」と書かれた食堂は奥の調理場に豚肉、ニラ、香菜などが無造作に置かれていた。
注文したごく普通の野菜炒めの具材は、甘く強い香りを放って美味しく、自然の恵みを実感する。
アカマツが目立つ疎林のいくつかの峠道を抜けて大理に近づくと、車道の両側は菜の花畑が広がっていた。



大理近郊の菜の花畑。後方は洱海だった。

 

大理に着いた時はすでに日が暮れていた。木賃宿のようなホテルに宿をとる。
夜になるとさすがに冷え込む。薄く擦り切れた毛布にくるまって寝たことを思い出す。
大理はチベット系の少数民族ぺー族(白族)の街だ。
10世紀の中頃、ペー族出身の段思平が大理国を建国、北宋時代の12世紀初めには「雲南節度使大理国王」に冊封されたが、13世紀中頃になってモンゴル帝国に降伏した。


翌朝、大理の東側に広がる洱海(じかい)を眺めながら約170キロ北の麗江への道を進む。
次第に高度が上って空気が乾いていく。
途中の民家の二階ベランダにはトウモロコシが干してあった。
夕方近く、標高5596メートルの玉龍雪山の山並みが望めた。峠を下っていくと、その先が麗江だった。


玉龍雪山の山容。山の頂は見ることができなかった。





麗江は周囲を山と丘に囲まれた標高2400メートルの高原に、ナシ族(納西族)の人たちが築いた。
麗江古城とも麗江古鎮ともいわれ、13世紀後半の宋の時代から明代にかけて整備されていった。
玉龍雪山からの湧き水が街を潤し、通りの脇には決まって水路があった。
麗江近辺の古代河床の砂利堆積物によって形成された五花石の石畳は一つひとつの四隅が丸みを帯び、所々が欠けていた。
黒く黄色く光る坂道を登って高台に立つ。
燻銀色の瓦屋根が連なり、板壁、格子はベンガラ色だった。
棟部の方向は一定ではなく、乱雑ともいえるアンバランスさがかえってこの街に奥行きを与えていた。


麗江。燻銀色の瓦屋根が続く。



見下ろした一角に広場があり、降りていくと雑踏の中にラバを引いた人たちを見かける。
近隣の人たちが収穫した農産物を市に運んできたのかもしれない。
広場には野菜、豆、豚肉などの屋台が並び、衣類、鍋などの日用雑貨の店もあった。
柴、薪、木片が束になって売られ、農機具の手入れをする鍛冶屋がいた。
ナシ族の青い服を着た女性たちは竹で編んだ籠を背負い、片隅では男たちが薬草の品定めをしていた。


麗江の市場



麗江の市場




麗江は雲南南部、西双版納(シーサンパンナ)からチベットまでの茶の交易路「茶馬古道」の中継地だった。
古道は北西の虎跳峡を長江源流の金沙江沿いに遡り、チベット高原へと続いている。
道筋に聳える梅里雪山(6740メートル)はチベット人には神の山であり、山麓を回る巡礼路もある。
1991年には日中合同登山隊の17人が雪崩で犠牲になった。

毎年の春、茶は「磚茶(たんちゃ)」として馬帮(キャラバン)によって運ばれていた。
茶葉を蒸してレンガ状にして乾燥させたもので、ラバなどの背に便利に括り付けられるように工夫されている。
円形の餅茶もある。多くは集積地の普洱から名がついた普洱茶(プーアル茶)で、香港などで飲茶のときによく飲まれている茶色のお茶だ。

『茶葉古道の旅』(竹田武史、淡交社、2010年)は馬帮の一人としてチベットまで行った麗江生まれのナシ族の古老の話を伝える。

老人の家の前には馬草を売る広場があり、毎日200頭近くの馬が行き交った。
馬帮は
60頭近くのラバで編成され、1頭が約40キロの荷を担いだ。
馬方はナシ族とチベッ
ト族の10数人だった。
4月に麗江を出発、ラサには108日目に着いた。
帰りの馬帮
にはヒマラヤ越えにインドから運ばれてきた酒、たばこ、生活物資などが積まれた。


ナシ族の老婆



亜熱帯の森で育った茶は乾燥地帯でヤクのミルクから採れたバターと混ぜ合わせて「スーチャ(バター茶、攪拌した茶)」になる。
厳しい風土の中で過酷な修業を送る僧、放牧の民には、栄養豊かな茶が欠かせなくなっていった。

その起源をダライ・ラマ法王日本代表部ホームページの「チベット人とバター茶」にみる。

病の王が鮮やかな鳥がチベットでは見たことのない葉のついた木の枝をもって飛んでいるのを見つけ、その葉を口に含むと素晴らしい香りが広がって少し元気を取り戻したような気がした・・・


茶の交易を通した人々の交流をいまに伝える古道は、中国の歴代王朝がつくり上げた文化とは無縁の文化を育んだ。
清朝などの冊封体制は、漢民族以外の他民族の存在を前提とした統治システムであり、大理、麗江といった地方での国づくりを可能にさせたともいえる。
いまの中国の「中華民族の偉大な復興」がいう「少数民族をも含めた中華民族」とはおよそ異なる考え方だったのではないか。


チベットから雲南に抜ける谷はインド亜大陸とユーラシア大陸の衝突で生まれた三江併流地域と呼ばれ、金沙江のほかにメコン川上流の瀾滄江(らんそうこう)とサルウィン川上流の怒江という二つの大河が流れている。
茶馬古道よりはるか昔の先史時代、三江併流地域もヒマラヤ以北から様々な民族が南下していったルートの一つだったのだろう。
現代までの長い長い歴史のなかで、幾多の民族がその途中で歩みを止め、ビルマ族、タイ族などが東南アジアのいまの地に辿り着いた。
大理から麗江への道すがら、そんなときを想像してもみた。

麗江は1996年2月の大地震の前に行った。
この目で見た老街は被害を受けたが、木造建築は大部分が崩壊を免れた。
復興事業に翌年の世界遺産登録が加わり、新しい街づくりが進んだと聞く。
昆明からは空路に続き、2019年1月には高速鉄道も開通した。

もう一度訪ねてみたいと思う。かつてのような麗江古城に会えるだろうか。
湧水の豊かさを感じ、茶葉の香りを楽しみ、野菜、薪を背にしたラバをひく農夫らを眺めることができるだろうか。

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