アジア新風土記(43)「南洋群島」から100年



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。




木枯らしが吹き始めた初冬の一日、武蔵野の一隅にある「原爆の図 丸木美術館」を訪れた。埼玉県の東武東上線東松山駅から東松山市内循環バスと徒歩で30分ほど、雑木林の小道の奥に丸木位里・俊夫妻の美術館はあった。


原爆の図丸木美術館。平日だったこともあり、貸し切り状態だった。いま少し交通の便のいい所にあれば、と思った。



二人が32年間かけて共同制作した『原爆の図』に時に立ちすくみながら、俊が若き日に旅した「南洋群島(ミクロネシア)」と立ち寄ったテニアン島から広島と長崎への原爆投下の爆撃機が飛び立ったことなどを思った。墨の濃淡を基調に赤と青がわずかに加わる地獄絵図さながらの世界から眩しいほどの陽光を浴びる南の島と海を想像することは難しかった。






1914(大正3)年、日本は第1次大戦が始まると直ちにドイツ領ミクロネシアに派兵する。1919年のベルサイユ条約で委任統治領・南洋群島になると、1922年4月、パラオ・コロール島に南洋庁を設置、サイパン、トラックなどに6支庁を置いた。東経130度から175度までの東西2700カイリ(約5000キロ)と赤道から北緯22度までの南北1300カイリ(約2400キロ)の広大な海域には623の島々、800近い礁島が点在していた。

日本の実質的な植民地は芸術家たちには憧憬の地だった。
彫刻家の土方久功はパラオの公学校の図工教員として赴任、南洋庁にも勤務する。部族の長老らを訪ね歩き、伝説を聞き、風俗を詳細に調査した。
丸木俊が位里と結婚する前の旧姓赤松俊子も1940年(昭和15)年1月、南洋航路船「笠置丸」で半年間の南洋群島の旅に出る。27歳だった。タヒチに暮らしたゴーギャンに憧れたとも恋人との別れがきっかけの一つともいわれた。「私たちは歌を唱い、いっしょに踊って、日本人の誰もいない文明から遠く離れた孤島に、美しい人間の姿を発見するのでした」(『生々流転』実業之日本社、1958年/品切)

小説家の中島敦は1941年、南洋庁の国語編修書記になる。短編『マリヤン』には「熱帯的な美を有つ筈のものも此処では温帯文明的な去勢を受けて萎びているし、温帯的な美を有つべき筈のものも熱帯的風土自然(殊に其の陽光の強さ)の下に、不釣合な弱々しさを呈するに過ぎない」という一節があった。(『中島敦全集2』ちくま文庫、1993年

南洋群島は生活の糧を得るために移住した人々の島々でもあった。俊子は笠置丸に多くの出稼ぎ労働者をみとめる。「段々を下りて船底に入りかけると、むっ、として、異様な匂いが鼻をつきます。沖縄や、南洋へ出稼ぎに行く朝鮮の人、沖縄の人々がオークルジョンのよごれた畳の上にごろごろ転がっていました」(『生々流転』)


赤松俊子の「スケッチミクロネシア」(丸木美術館のポストカードから)



南洋庁の『南洋群島要覧』や『沖縄県史第7巻・移民』などによれば、1914年には数十人程度だった日本人が、南洋庁設置の1922年は3310人に増え、1935年には5万573人の島民を上回る5万1861人までになった。沖縄県人は半国策会社「南洋興発」が砂糖事業の労働力として積極的に採用、1939年には日本人全体の59.2パーセントにあたる4万5701人に増えた。

1941年12月8日、日本はハワイ・真珠湾奇襲によって太平洋戦争に突入、10日には英領ギルバート諸島・タラワ島(現キリバスの首都)を占領する。さらに南のソロモン諸島・ガダルカナル島も攻略するが、連合国側の攻勢に1943年2月に撤退する。

1944年6月11日、サイパン島が初めて連合国軍の空襲を受け、1か月後には陥落する。島民、日本人移民らも多数の死傷者を出した。安仁屋政昭は「南洋群島における一般邦人の死者は一万五千人といわれているが、サイパンでの死者は一万人(そのうち六〇%は沖縄県出身者)」と書く。(『新沖縄文学84・南洋移民の戦争体験』沖縄タイムス1990年)

サイパンの南西5キロのテニアン島も戦場になった。『読谷村史・南洋出稼ぎ移民の戦争体験』はテニアンに暮らした人の話として「人が戦火を逃れて避難できるのは海岸沿いの山しかなかった。しかし、その山も海からの艦砲射撃が激しくて、岩盤の丈夫な壕に避難した人は助かったが、多くの人が亡くなっている。山の木には葉っぱがほとんどなくなって枯れ木みたいになっていた」と伝える。


2022年、日本が南洋群島に南洋庁を設置して1世紀が経った。近代史の中で100年という年月は、人々の記憶にどれほどのものを留めているのか。日本人がかつて暮らしていたことを示す痕跡はわずかでもあるのだろうか。

サイパン島は連合国軍に追われた人たちが海に身を投じた崖が「バンザイクリフ」として観光客らの記念撮影の場になり、原爆を格納したピットが残るテニアン島のカジノは24時間営業だ。太平洋戦争の激戦地も、日本軍と連合国軍兵士のほかに多くの市民が犠牲になったこともすでに遠い過去の話になった。南洋庁の時代があったことも忘れられていくのかもしれない。

日本の敗戦後、台湾は大国の勢力、権益が及ばなくなった島嶼国と経済援助をてこに次々と国交を結んでいくが、次第に国力をつけた中国との「援助合戦」になり、各国は経済力に勝る中国との国交を選択、台湾と断交する動きが加速した。

南太平洋の島々はいま、米中両国の新たな対立の場へと変わりつつある。

2022年4月19日、中国はソロモン諸島と安全保障協定を締結、軍事プレゼンスを明確にする。その後も米巡視船のソロモン寄港が手続き不備を理由に不許可とされたとき、キリバスが豪、ニュージーランド、島嶼国が経済、安全保障などを話し合う「太平洋諸島フォーラム(PIF)」から脱退したときなど、中国の「影響力」がその都度指摘されてきた。

米国はインド太平洋地域の経済枠組み(IPEF)へのフィジーの参加を表明、島嶼国14か国との初の首脳会議では8億ドルの投資援助を約束した。日豪両国も海上の保安体制、サイバー防衛などに加え、軍事面での連携強化を確認する。10月にソロモン諸島・ソガバレ首相が豪アルバニージー首相に語った「太平洋諸国の安全を危険にさらさない」という言葉は外国の軍事施設は設置させないと受け止められたが、どこまで説得力を持つか。


2022年はガダルカナル島の戦闘から80年の年でもあった。連合国軍が上陸した8月7日、島で執り行われた慰霊祭には日米の政府高官らが参列する。式典は戦死者らを追悼するだけではなく、ソロモン諸島と中国との関係強化を牽制するセレモニーともいえた。


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