梅田正己のコラム【パンセ21】ウクライナ戦争の本質は何か

日本ジャーナリスト会議の機関紙『ジャーナリスト』の
本年7月25日号に、さる6月14日に行われた水島朝穂氏の
オンライン講演「ウクライナと憲法9条」の講演録(要旨)が紹介された。

 
博学にして才気煥発の水島氏らしく縦横無尽の論旨展開だったが、
私にはいくつか引っかかるところがあった。
うち1点だけ、意見を申し上げたい。

 

 
冒頭、水島氏は「この戦争に多額の支援をする米国について」、
この戦争は「仕組まれた戦争」であるとして、
その理由をこう述べられている。


  ①  
プーチンを挑発して、ウクライナに全面侵攻させ、

   事前にウクライナ側に準備させておいてこれをたたいた。


 ② コロナ禍で落ち込んだ米軍需産業の息を吹き返らせる機会にしている。

 

 
つまり今回のロシア軍によるウクライナ侵攻は、
「相手を軍事介入するように仕向けた」、
米国の「罠」だったというのである。
そしてその「成果」を、水島氏はこう解説した。

 
「ロシアの戦車部隊はウクライナ北部から首都、キーウを狙った。
しかし侵攻の前年からウクライナには英米の軍事顧問が入り、
対戦車兵器『ジャベリン』の準備をしていた。
待ち構えたウクライナ軍がジャベリンで戦車を破壊した。」

 

 
たしかにキーウではロシアの戦車隊は数日で撃退された。
しかしその後、東部や南部で激戦が果てしなく続き、
悲惨きわまりない事態が生じていることは、テレビで見る通りである。
この戦争の由来を理解するためには、もっと時間をさかのぼる必要があると思う。

 



 干渉・介入から侵攻へ

 

 
2000年にプーチン政権が成立した後、2004年から05年にかけ、
ウクライナは大統領選で激しく揺れる。
親ロシア派のヤヌコービッチと欧米寄りのユーシェンコが争ったのである。
いったんはヤヌコービッチが勝利したが、選挙に大規模な不正があったとして、
数十万の市民が抗議デモをくり返した。

 
この選挙戦にはプーチンも自らウクライナに乗り込んでヤヌコービッチを
支援したが、最高裁の指示で投票のやり直しをした結果、ユーシェンコが
新しい大統領となった。「オレンジ革命」と呼ばれる。

 
しかしこの後、政権内部に混乱がつづき、それに乗じてプーチンは
天然ガスの価格を大幅に引き上げ、さらには停止をするなどして圧力をかけた。
その結果、2010年の大統領選ではヤヌコービッチが返り咲いた。

 

 
その4年後の2014年2月、ソチ・オリンピックのさなか、
首都キーウの都心にある独立広場(通称マイダン)で野党勢力が
治安部隊と激突する。
多くの犠牲者が出るが、野党勢力がキーウを制圧し、
議会はヤヌコービッチを解任、暫定政権がつくられた。
「マイダン革命」と呼ばれる。

 

 
しかしその翌3月、プーチンは世界を震撼させる行動に出る。
ウクライナ領であるクリミア半島を奪ったのである。
ウクライナの憲法では領土の変更は「国民投票」によると定められている。
しかしプーチンは軍事的圧力のもと、半島の「住民投票」だけでそこを
自国領に編入した。

 

 
さらに翌4月、ウクライナの東部、ルハンスク州とドネツク州で
親ロシア派の住民によるデモ隊が政府庁舎などを次々に占拠し、
「住民投票」を強行してウクライナからの分離独立を表明、
それぞれが人民共和国を宣言した。

 
ウクライナ政府も、今回はさすがに黙認することはできず、
国軍による攻撃に踏み切った。
この戦争が、以後8年間、断続的に続いているのである。

 

 
当時、ウクライナの全人口は4500万、うち東部2州は800万だった。
軍事力では2州が国軍に対抗できるはずはない。
にもかかわらず戦闘を継続できたのは、ロシアが支援を続けたからである。
そしてまた西側諸国も、ウクライナ国軍に対して軍事的支援を行ってきた。

 
だからこそ、戦争は双方ともに引くに引けず長く続いてきたのである。

 

 ロシア帝国以来の覇権国家の遺伝子

 

 
以上みたように、ロシアのウクライナに対する干渉・介入は
最近始まったものではなく、すでに20年近くもの長期にわたっている。

 
では、なぜ、プーチンはかくも執拗にウクライナに固執しているのだろうか。

 
そこには遠く帝政ロシア時代以来のこの国の覇権主義・領土拡大主義に対する
「執念」が息づいているように、私には思える。

 

 
領土拡大をめざしたロシア帝国は18世紀半ば、東に向かってはシベリアから
さらにベーリング海峡を越えて北米大陸のアラスカを領有、
「ロシア・アメリカ会社」を設けて管理し(のちに米国に売却)、
南に向かってはラッコなどの毛皮を求めて千島列島を南下し、
外国からの門戸開放の使節としては他国に先駆けて日本にやってきた(18世紀末)。

 
また19世紀末には清国と交渉して満州に進出、満州を横断するシベリア鉄道を
敷設し、さらにハルビンから大連まで南満州鉄道を引き、鴨緑江をこえて朝鮮
半島にも触手を伸ばし、それが引き金となって日露開戦となった。

 

 
ロシア革命をへてソビエト連邦になったあとも、第二次大戦の勃発を機に
ポーランドをヒトラーと折半して併合、バルト三国を飲み込むのと合わせて
フィンランドの一部を割き取った。

 
第二次大戦後には日本からは北方領土を取り、東ドイツはじめ東欧諸国を
衛星国化した。また1979年にはアフガニスタンに出現した親ソ政権からの
要請を名分として、10年にわたり同国に進攻した。

 

 
ロシア帝国時代からソ連邦時代を通して、一貫してロシアに見られるのは、
その旺盛な覇権主義、あくなき領土拡大の意欲である。

 
プーチンの中にも、その遺伝子がしたたかに息づいているのではないか。

 
今年2月、プーチンが大戦車隊によってキーウの攻略をめざしたのも、
首都を落とせばウクライナ全土を容易に制圧できると考えたからである。

 

 
プーチンが求めているのは、ウクライナの併呑による大スラブ主義の確立、
覇権国家の拡大である。
そこにこそウクライナ戦争の本質がひそんでいる。

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