アジア新風土記(32)「植民地香港」の抹消



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。




2022年7月1日、返還から25年が過ぎた香港は厳戒態勢の中にあった。

中国の習近平国家主席はこの日、広東省深圳から高速鉄道で陸路、返還式典に臨んだ。
本土との一体化は確実に進んでいるものの、「ゼロコロナ」政策だけは徹底されず効果を
挙げていない。

不測の事態を防ぐための香港宿泊回避だった。
絶対的指導者の辺りを威圧する「香港入境」は、
1997年7月1日の解放軍「香港入城」を思い起こさせた。




返還25年式典会場の周囲は関係者以外「封鎖」された。6月30日、香港島・湾仔で


習主席は香港島・湾仔の式典会場で
「中央(政府)は香港特区の全面的な統治権を持つ」
「一国二制度の根本的な目的は国家の主権と安定、発展利益を維持することだ」
と発言、
愛国者だけが立候補できる選挙制度などについては
「国家安全維持法制定、選挙制度改定により、愛国者による香港統治の原則が実現した」
と述べた。

個人の自由、人権より国家としての秩序を最優先する中国的価値観を
色濃く反映させた演説は、香港が英領植民地以来営々と築いてきた歴史を
葬り去る響きを持っていた。


香港政府の強硬派トップとして「自由な社会」をわずか数年で瓦解させた
李家超(ジョン・リー)新行政長官もまた、香港の秩序を強調する。
この日就任した警察官僚出身の新長官は2017年から治安機関を指揮、
19年の逃亡犯条例改正案反対デモを力で抑え、2021年には民主派の人たちの
声を代弁してきた「蘋果日報(アップルデイリー)」を廃刊に追い込んだ。
7月1日は毎年、民主化デモが行われてきたが、警察当局による事前の「注意喚起」が
伝えられた街にデモ隊の姿はなかった。


香港の「崩壊」は続く。

香港の各メディアは2022年6月中旬、
9月新学期からの高校「公民と社会発展」科目の4新教科書には
「香港は植民地になったことはない」と記されていると報じる。


ウェブサイト「大公文匯全媒体」は6月17日、
「英国は香港を植民地的に支配しただけであり、
中国は主権を放棄したことはなく、
清朝以来不平等条約(アヘン戦争後香港を割譲した南京条約=筆者注)
を認めたことはない。
ある国が植民地と宣言するためには主権と統治権を持つ必要がある」
とその理由を伝える。


立法会(議会)のウェブサイトでも「立法会の歴史」にあった
「1841年1月26日から1997年6月30日まで英国の植民地だった」
との記述がすでに消えた。
「1841年1月26日」はアヘン戦争で英軍が香港島に上陸して領有を宣言した日だ。


中国政府は1989年の天安門事件は若者らの民主化運動ではなく動乱だとする見解をとり、
国際社会からの批判を「国内問題」として封じ込めた。
そしていま、アヘン戦争後の香港を中国流に恣意的に解釈する姿勢を鮮明にする。

香港が英国の植民地だった「事実」が否定され、「植民地香港」の時代と
その事跡があらゆる公文書から削除されていくのだろうか。



25年前、雨の中の香港返還に香港人の「存在」はなかった。
アジアを侵略した大英帝国の残滓が消え、中国が宗主国に代わっただけのセレモニーだった。
香港の人たちは植民地であるがゆえに国家を意識しない自由な都市をつくりだした。
だが、その将来を自らの手でつかむ機会は持ち得なかった。

返還後、香港人が香港を治める「港人治港」を目指した様々な試みは挫折を繰り返した。
「国家」に対する「都市」の敗退は明らかだった。
諦観が重苦しく逃げ場のない感情となって人々の心を襲っているのではないか。




英国のサッチャー元首相は『サッチャー回顧録』に
「自由経済システムの利益を、その基盤となる自由な政治制度がなくても
手にすることができるという中国人の信念は、長期的には誤りであると私には思えた」
と書いた。(石塚雅彦訳、日本経済新聞社、1993年)

その言葉が将来、正鵠を射たものになるのかどうか。

香港の「中国化」は21世紀に発生した二つの感染症が加速させたと言えるかもしれない。
中国という国家の色に次第に染められていくことは避けられなかったとしても、
社会の変化の早さは多くの人たちの予想を超えていた。

2003年、香港は重症急性呼吸器症候群(SARS)によって観光客は激減、
経済は大きく失速した。
中国政府は香港政府と経済協力協定を結び、香港企業の大陸での優先的な市場開放を決め、
香港製品の関税を撤廃するなどの優遇措置もとる。
同時に大陸からの個人旅行「自由行」を認めた。
瀕死の経済が立ち直った香港は大陸との一体化を否が応でも認めざるを得なくなった。


第二の感染症は新型コロナウイルスだ。

香港の大流行は2019年から続いていた逃亡犯条例改正案反対運動の
盛り上がりを断ち切った。
「蔓延防止」という名目で集会を禁止した香港政府は、
香港島・ビクトリア公園で毎年6月4日に開催されてきた
「天安門事件犠牲者追悼キャンドル集会」を中止させた。

集いを主導してきた民主派の人たちもコロナ対策という
「錦の御旗」に打つ手がなかった。



2017年6月末、九龍半島・尖沙咀の波止場から香港島・セントラル(中環)への
スターフェリーに乗った。波止場は返還から20年が経っても昔のままだった。
乗船場に向かう階段前広場には新聞スタンドが立ち、路上に新聞、雑誌が並べられていた。
商売っ気があまりなさそうな売り子の表情に懐かしさが込み上げてくる。
ビクトリア港の熱風も心地よかった。

対岸からのフェリーが着き、降りる人とこれから乗る人が入れ替わる風景は、
英国作家リチャード・メイソンの戦後香港を舞台にした小説『スージー・ウォンの世界』
の主人公、スージーがそこに立っていても決して違和感がないかのようだった。



セントラルは新しい波止場に変わった。かつてはトラム通りに直結していたが、
現在は繁華街から500メートルほども先になった。
海に突き出た近代的なピアに、風水的に勢いを失ってしまったという人がいた。
利便性がなくなった波止場へ足を運ぶ人は減り、うら寂れた空気さえ漂っていた。
代々の香港提督が上陸したクィーンズピア(皇后碼頭)は跡形もなく、
スマートな公園に観覧車が立っていた。

この5年の間、香港に行っていない。いま、どんな風が吹いているのだろうか。

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