アジア新風土記(28)東ティモールのコーヒー



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。







東ティモールは21世紀に生まれた独立国だ。
赤道の南、小スンダ諸島の一つ、ティモール島東部に位置し、
関東平野ほどの約1万5千平方キロの国土に約130万人が暮らす。
2002年5月20日に独立するまでの歴史と独立から20年の歳月を、
特産コーヒーを味わいながら考えた。
小国が独立を維持するということはどういうことなのか。


東ティモールコーヒーはポルトガルの占領から300年後の19世紀初めに
苗木が持ち込まれたことに始まるという。国土の6割を山岳地帯が占め、
熱帯性気候でありながら海抜の高いところは昼夜の寒暖差が大きく降水量
も十分だった。海抜千メートル以上の栽培適地には原産地エチオピアの
アラビカ種が植えられ、低地では西アフリカ・ビクトリア湖周辺が原産
とされるロブスタ種になる。


コーヒーは輸出の大半を天然資源に頼るなかでほとんど唯一の農産品だ。
栽培、生産などで生計を立てている人たちは国民の2割を超す。
2016年の輸出額は990万ドル(農水省農林水産業概況)。
同年の在ティモール大使館経済情報は、主な輸出国は米独で5割を占め、
日本は6番目の2.9%としている。

東京・神田のNGO・パルシック(PARCIC)は02年から東ティモール
での栽培に取り組み、生産者の組合づくりに協力、フェアトレードで購入し
ていると聞いた。

買った豆を挽いていくと「アーシー」(土っぽさを表すコーヒー用語)な
香りが漂ってくる。
コーヒーを淹れる。
苦味が勝って次第に酸味が増してくる。
甘みも微かに残るすっきりとした後味だった。



「カフェ・ティモール」。パルシック事務所で豆、粉は各700円、ドリップパック(10パック)は1000円だった。


独立前のディリの町を思い出す。
空が低く、さらっとした乾いた土が舞っていた。
辺りの木はみな低く、大木はなかった。
アジアのどこにでもあるような海辺の小さな町だった。
これがやがて一国の首都になるかもしれない町なのかと思った。

パルシックのホームページ「コーヒー生産者支援(2002年~)」によると、
最初はディリの南、アイナロ県の海抜1300~1700メートルの山間部
マウベシの34世帯との活動だった。
この地域には約4千世帯、2万5千人が暮らしていたが、協力農家は次第に増え、
「マウベシ農業協同組合」を組織するまでになり、16年現在で6村18集落
約540世帯の組合員が生まれた。

「カフェ・ティモールとの出会い」(同ホームページ)は、
02年5月末のマウベシでの伊藤淳子さんの体験を載せる。

「農家を訪ねると必ずコーヒーを準備してくれました。
湧水を汲んできて、薪で火をおこし、自家用にとってあったコーヒー生豆を
卵焼器のようなフライパンや中華鍋で炒って、臼で突いて粉状に。
グラスにその粉と砂糖をたっぷり入れて、熱いお湯を注ぎます。
ややドロッとしていて甘く、風味があって美味しいコーヒー」。


東ティモールの長く苦しい独立闘争をこうした農家の人たちが支えていた。
伊藤さんはその一端を伝えてくれる。
「インドネシアによる占領時代に、夕方に畑の端、山のふもとに
トウモロコシなどの食糧を置いておくと翌朝には無くなっていた」。




ポルトガルが1974年に撤退を決定すると、東ティモール独立革命戦線
(フレティリン)をはじめとする武装各派が即時独立か漸進的独立かで対立、
内戦状態になった。
混乱状態に乗じたインドネシアは75年12月に軍事介入に踏み切る。
この年4月にはベトナム戦争がサイゴン陥落によって終結、米国などは
社会主義国の台頭を警戒して動かず、76年の併合宣言も黙認した。

独立への転機は98年のスハルト体制の崩壊だった。
99年8月に国連管理下で行われた住民投票は投票率98.6%、
独立賛成票は78.5%だった。住民の圧倒的多数が独立を支持した。


ディリのサンタクルス墓地を住民投票の直前に訪ねた。

91年、インドネシア国軍が武装集団に殺された独立派の若者の死を
悲しむ人たちに無差別発砲した場所だ。
地元の調査では273人が殺され、255人の行方がわからなくなったといわれる。

若者の墓には背丈が30センチほどの濃いピンクの花「ブンガ・ブトン」が
植えられてあった。
30年以上も墓地を管理しているという墓守が「枯れたらまた植える」
と名前を教えてくれた。

「独立をしないとそのうちに殺されるかもしれない」ともつぶやいた。
この土地に生きる人たちの国軍への恐怖と独立への思いを垣間見た気がした。


ディリ・サンタクルス墓地の若者の墓。「ブンガ・ブトン」はいまも咲いているだろうか。


2002年4月、国連東ティモール暫定統治機構(UNTAET)管理下の
初めての大統領選は、グスマン元東ティモール民族抵抗評議会議長が当選、
5月20日に独立を達成する。

国づくりは平穏なものではなかった。
インドネシア併合派勢力の抵抗、元兵士らの暴動などが続き、
国連は06年に東ティモール統合支援団(UNMIT)を設立して
治安の維持にあたる。
12年までの活動期間中、日本からも陸上自衛隊員、文民警察官らが派遣され、
無償資金協力も続けた。


グスマン氏は21年11月に来日したとき、独立後の歩みを
「平和を得た」と表現した。
独立当時は「統治の経験もなく、何もない中からできた国」であり、
現在の状況を「極めて良い方向にあるとは言えないが、悪くはない」
と話した(共同通信21年11月26日)。


22年4月19日、独立後5回目になる大統領選の決選投票が行われ、
独立運動指導者のホルタ元大統領が現職のルオロ大統領を下す。
新大統領の課題は国民の約3割が貧困層ともいわれる社会の底上げだ。
04年の開発本格化から国家財政を支える石油、天然ガスは、
18年にオーストラリアとの間でティモール海の境界画定問題が解決、
共同開発への道筋ができた。一つの明るい展望になるのか。

経済の脆弱性は東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟問題でもネックになっている。
11年の加盟申請からすでに10年が過ぎている。
経済的な取り組みへの共同歩調がとれるかという懸念はなお強い。
メンバー国が経済問題などで大国への依存を強めれば、全会一致が原則の
ASEAN全体に影響を及ぼしかねないという問題もある。

一方で決選投票と同日に発表された南太平洋・ソロモン諸島と
中国の安保協定は、ASEAN内に東ティモールを加盟させて
「取り込む」という新たな思惑を生じさせるかもしれない。

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