アジア新風土記(25) 朝鮮「三・一運動」の魁



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。





3月1日は日本の植民地時代の朝鮮半島で起きた独立決起の日だ。1919年のこの日、ソウル(旧京城)で天道教、キリスト教、仏教などの宗教指導者ら33人が「我らはここに我が朝鮮が独立国であることと、朝鮮人が自主の民であることを宣言する」に始まる独立宣言書を読み上げた。

市内のタプコル(旧パゴダ)公園には市民、学生数千人が集まり、「独立万歳」を叫ぶ人たちは数万人規模に膨れ上がった。朝鮮総督府は軍隊を出動させて解散させたが、運動は全国に広がっていき、中国・上海などで独立を目指して活動していた人たちによる4月11日の臨時政府樹立へとつながっていく。


「三・一運動」の1か月前の2月、東京の朝鮮人留学生らが「二・八独立宣言」を発表する。宣言には「わが民族は日本および世界各国が、わが民族に民族自決の機会を与えることを要求する」とあった。第1次大戦は前年の18年に終わり、ウィルソン米大統領が提唱した「民族自決」を希求する時代の空気を植民地の若者らは敏感に感じ取っていた。

宣言文は留学生の一人が帽子に隠してソウルに持ち帰った。宗教指導者らは、宗主国の首都のど真ん中で公然と「朝鮮独立」を叫んだ留学生の勇気と決意をどのような思いで受け止めたのだろうか。

「二・八独立宣言」の記念碑と資料室、図書室などが東京・千代田区神田猿楽町の在日本韓国YMCAにあることを友人から聞いた。中央線・お茶の水駅から10分ほどだ。お茶の水橋口から線路沿いを水道橋方面に戻るように歩き、関東大震災復興事業で崖地に新たにつくられた「女坂」の急な階段を降りて左折すると、正面玄関脇に「朝鮮独立宣言 一九一九 二・八記念碑」が立っていた。


「二・八独立宣言」の記念碑。1982年に建立された。



在日本韓国YMCAのホームページ「2・8独立宣言記念資料室」をみる。

「東京が30年ぶりに大雪に見舞われた1919年2月8日、(中略)在日本東京朝鮮YMCA(現在の在日本韓国YMCA、当時は朝鮮基督教青年会館=筆者注)の講堂で『朝鮮留学生学友会総会』が開催されることになっていました。会場は始まる前から結集した数百名の留学生で熱気にあふれていました。(中略)『朝鮮青年独立団』を結成しようと『緊急動議』の声が挙がり、独立団代表11名の署名入り独立宣言文が満場一致で採決されました。(中略)宣言文はソウルにも伝えられ、3・1独立運動を引き起こす導火線となりました。(後略)」


記念資料室は2階にあった。漢字ハングル混淆文の独立宣言書(複製、オリジナルは韓国・天安市の独立記念館蔵)、独立団代表11人の写真に加え、彼らが内乱罪で処罰されることを覚悟して宣言の発表に臨んだこと、1910年の朝鮮併合直後には500人を超す留学生がいたこと、18年に英字紙が伝えた米国での朝鮮独立運動の動きに衝撃を受けたことなどがパネル展示されていた。留学生たちの100年を超えてなお放つエネルギーに触れる思いだった。


記念資料室。2008年に開設され、「独立宣言」100周年の19年にリニューアルされた。


独立団代表のうち日本を脱出した2人を除いた9人が逮捕されたが、日本人弁護士らによって「内乱罪」ではなく「出版法違反」という軽い罪状になったことも知る。ほんの少しばかり救われた気持ちになった。台北の台湾大学構内で農学研究生らから台湾の米がおいしくなったのは日本の研究者が品種改良で「蓬莱米」をつくったからといわれたときに感じた心の揺れとどこか通じるものがあった。


「独立宣言」に署名した11人。



「二・八独立宣言」は日本と朝鮮との係わりだけに留まらず、東アジアの民族運動に大きなインパクトを与えたともいわれる。
在日本東京朝鮮YMCAは現在の在日本韓国YMCAから南西に600メートルほどのところにあったが、関東大震災で焼失した。当時、朝鮮人が東京で実質的に所有した唯一の建物であり、留学生らの拠り所になっていた。近くには中国人留学生らが集まっていた中華留日基督教青年会の会館もあり、朝鮮、中国、そして台湾からの留学生同士の交流は活発だった。記念資料室の田附和久室長によると、近年「二・八独立宣言」と中国、台湾の留学生との関係が注目を集めるようになったという。


「国の独立」とは何なのだろうと思うときがある。
人々の気持ちを高揚させる日はどのような感情が社会を支配するのだろうかと思う。


日本は人々を奮い立たせるような歴史的な日を持っていない。敗戦の日、広島と長崎の原爆投下日、阪神淡路や東日本などの大震災はすべて、レクイエムが相応しい記念日だ。
他国の植民地にされた、あるいは沖縄を除いて他国に蹂躙されたことがないということは、そのような経験をした国と人々の気持ちをどこまで分かり合えるのか、どこまで入り込めるのかという問いとなって跳ね返ってくる。

日本にも戦後、連合国による「占領」の時代があった。1945年の敗戦から52年4月28日にサンフランシスコ講和条約発効によって連合国との戦争状態を終了するまでは、独立国ではなかった。しかし、社会は占領下の6年半余りが他者に支配されていたという発想を持たなかった。打ち消したというべきか。この4月28日を「独立した日」として記憶する人がどれだけいるのだろうか。


「二・八独立宣言」は「朝鮮は常にわが民族の朝鮮であり、かつて一度として統一国家であることが失われたり異民族の実質的支配を受けたりしたことはなかった」とうたった。その朝鮮は48年から韓国と北朝鮮に分かれ、70年以上が過ぎた。「統一国家」への道筋は見えない。

2022年3月9日の韓国大統領選での尹鍚悦氏の勝利は、その機運をさらに遠のかせるかもしれない。尹氏は米国との同盟強化によって北朝鮮への抑止力を持つことが重要だとして文在寅大統領とは異なる姿勢を示す。北朝鮮はこの年、金正恩総書記の権力掌握から11年目に入った。米国・グアムを射程に収める中距離弾道ミサイルの実戦配備を示唆するなど国際社会への示威行為を続ける。

韓国の板門店から北朝鮮を眺めたことがある。国境は幾度となく越えたことがあり「38度線」もまたその一つという意識に変わりはなかった。韓国の人たちが同じ風景を見ていた。同胞が対峙する非武装地帯に「国境」という感覚はないのだろうと思った。その胸の内を推し量ることは難しかった。

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