アジア新風土記(3)台湾パイン


著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。











台湾は果物がおいしい。バナナ(香蕉)、パイナップル(パイン、鳳梨)、マンゴー(芒果)に、日本には馴染みの薄いレンブ(蓮霧)、シャカトウ(釈迦頭、バンレイシ)と枚挙にいとまがない。どれがベストかの好みはあるが、味に期待外れはない。台湾の果物がまずかったという人がいたら、それはその人の体調がよほど悪かったと思っていい。



台湾のパイン産地は中部から南部にかけてだ。北部ほど土地が隅々まで利用されているわけではなく、山も野も畑もすべてが野趣に富んでいる。台湾を旅行するとき、台北、基隆などの北部だけではもったいない気がして、時間に余裕があれば南部まで足を延ばすことにしている。

台北から台湾鉄道の特急で東海岸の花蓮を経由して南下、3時間半で台東に着く。先住民の立像が出迎えてくれる駅頭に立つと、空が高いことに気づく。体全体が自然と動き出すかのような気分になってくる。

台東駅から北の鹿野郷に向かうバスに乗りパイン畑を探しにいく。バスはほどなく市街地を外れ、水田、畑、広葉樹の林を抜けていく。時々、思い出したかのように集落があり、その一つのバス停で降りる。田舎道からパイン畑に入り、のんびりと開放感だけが支配する大地に立つ。パインはバナナ、あるいはマンゴーのような背丈はなく、畑から果樹園を想像することは難しかった。








強烈な日差しを思う存分に浴びて育つ苗はたくましかった。実りのときには少し早く、口の中にじわっとした甘い感触だけが広がった。

南米が原産のパインは清朝時代の17世紀中頃、大陸の福建省から台湾に持ち込まれたといわれる。果実は小さく、繊維質も多くてまだ売り物にはならなかった。日本が19世紀末に植民地とすると、台湾総督府はシンガポールへのスタッフ派遣、ハワイからの種苗取り寄せなど換金作物としてのパインの育成に乗り出した。戦後は缶詰の輸出は伸びたが、生産コスト上昇と東南アジア産との競争激化で、次第に島内消費に回されるようになった。年間の生産量は現在42万トン前後になる。20年の輸出量は約4万6千トンで、中国向けが97パーセントを占めている。

その中国への輸出が突然ピンチに見舞われた。中国政府は21年2月26日、有害生物の混入という理由で3月1日から台湾産パインの輸入停止を発表する。台湾側は不良品は0・21パーセントにとどまり、検疫強化後の害虫検出はないと説明、本格的な収穫期を前にした意図的政治的な規制だと反発する。


台湾政府は直ちにパイン産地の視察、農家支援としての10億台湾ドル(約38億円)の予算投入を決定する。民間企業も大量購入を表明、台北市内のレストランなどでは新たにパインを使ったケーキをメニューに加えた。中国以外の国々への輸出目標を3万トンに引き上げるなどのキャンペーンも素早かった。台湾と大陸(中国)という「両岸関係」の出来事で終わらせないとする台湾政府の判断の背景には、新型コロナの感染防止で国際社会にアピールできたという経験と自信があったのだろう。「自国内」の一農産物問題に過ぎないとする中国にとっては想定外の展開だったかもしれない。

日本はスーパーなどが台湾産の購入拡大を打ち出す。21年は前年の5倍近い1万トンが見込まれ、2月末には南部・屏東県から日本向けの第1陣が出荷された。




日本の反応には少しばかり驚いた。市民レベルでの友好に「東日本大震災10年」が重なり、台湾の支援活動を思い起こした人が多かったとも言える。こうした動きは「困っているから助けよう」という「災害救援感覚」に近い感情が働いた結果ではとも思う。日台関係の延長上に日中関係があること、あるいはその逆について、社会のコンセンサスが得られるまでにはまだかなりの時間がかかるような気がする。


台湾南部は「独立した台湾」を志向する与党民進党の「金城湯池」だ。中国はこれまでにも農産物、養殖魚介類の長期契約などで「南部取り込み」を図ってきた。パイン禁輸が民進党の地盤を崩す狙いだったかはわからないが、3月中旬には大陸で農業を目指す農家、法人への農地利用、補助金などでの優遇措置を発表する。「台湾統一」のためともいえる優遇政策は、18年高雄市長選で「大陸との一帯」を訴えた国民党の韓国瑜氏勝利に一定の影響を与えたとされる。ただ、韓氏は20年総統選で民進党の蔡英文氏に惨敗、半年後にはリコールで市長を罷免される。

清朝時代、福建省などから台湾に移住してきた人たちは多く、南部に生活の基盤を築き、「本省人」と呼ばれた。中国共産党との「国共内戦」に敗れ、中国国民党・蒋介石らと共に台北周辺に居を構えた人たち(外省人)への反発は強かった。その「南北対立」も最近2回の総統選で蔡氏が全島で支持を集めたように過去のものになり、北も南も変わらない「台湾人」という発想が台湾社会の趨勢になってきている。パイン問題でも「大陸はまた仕掛けてきたか」という反応が少なくなかったのではないか。


蔡氏は日本への感謝を表明、「台湾にいらしたら必ずと言っていいほどパイナップルケーキを購入されるでしょうが、台湾産パイナップルはフルーツとしてそのまま食べるのも最高なんですよ! ぜひ食べてみてくだい!」とツイートした。

パイナップルケーキ(鳳梨酥)は台湾の逸品だ。50年代の台中の菓子店が始まりという説のほか、諸説あって定かではない。日本ではこの菓子のほうが、生パインあるいは缶詰より相当知名度が高い。


台北・松山空港近くの民生東路五段にあるパイナップルケーキの店「微熱山丘(サニーヒルズ)」は、元々は中部の南投県が創業地だ。若い女性を中心に人気が定着したころ、買ってみて病みつきになった。といっても、人それぞれに「その奥深さは民生東路だけではわからない」「繁華街の林森北路にある店のほうが美味い」「やはり本当の味は高雄に行かないと」となって、終わらない。茶の産地自慢などで聞くような話に、果物、菓子が加わって少し、楽しくなった。



 

香蕉(シアンジャオ)

鳳梨(フォンリー)

芒果(マングオ)

蓮霧(リエンウー)

釈迦頭(シージアトウ)

鳳梨酥(フォンリースー)

 

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