『日本ナショナリズムの歴史 全四巻』読者から著者への感想を紹介します

 

 

  読みふけった――全4巻!

                                   笹岡 敏紀

 『日本ナショナリズムの歴史』第Ⅳ巻を、昨日(10月24日)読み終えました。


 第Ⅲ巻を一昨日読みましたので、二日続けてこの大著の後半を読んだことになりますが、私はこのように集中して本を読むということはまずありません。しかし、この著作は例外でした。Ⅰ・Ⅱ巻を読み「早くⅢ巻・Ⅳ巻が来ないかな」と待ちわびていたからです。文字通り朝から晩まで「読みふけり」ました。


 それは、私が長年持っている「何故に、日本人は天皇制と縁が切れないのだろうか」という疑問に、この4巻の著作が正面から答えてくれていたからでした。そして、Ⅰ~Ⅳ巻のどれもがページを繰るのに忙しいほど、前に前にと読み進めていたのです。「これは、2読・3読しなければならないな」と思いながらも、とにかくこの著作の全体像を?みたかったのです。



 この総ページ1500ページ余にもなる『日本ナショナリズムの歴史』という著作は、まさに日本の歴史の中で「天皇〈制〉」とはいかなる存在としてあったのか。それは現在の課題にどうかかわるのかという、すぐれて今日的課題・問題を解く鍵を私に与えてくれるものでした。


 Ⅲ・Ⅳ巻だけで850ページもある本をこのように読み進めた理由は、このように私の問題意識に応えてくれる内容であると同時に、本書の記述がきわめて分かりやすく、説得力ある筆致で書かれているからでもあるのでしょう。著者が自ら問いを立て、さまざまな文献・史料を読み込み「答え」を追求する。それは、読者にとっても、著者と問題意識を共有し一緒になってその答えを求めていく作業をすることになるからでした。


 それにしても、なんと沢山の文献・史料を渉猟・探索されたことでしょうか。この著作では取り上げられなかったものがさらに多く存在していたことでしょう。私は、この書を通してそれまで知らなかった沢山の史料や多くの人の言説を知ることができました。


その一つの例で言えば、Ⅲ巻にある矢内原忠雄の一連の論文・論説でした。私は読みながら、「矢内原忠雄という人はすごい人だったのだな」と認識を新たにしたのでした。おそらく、近現代史を勉強する人でも、ここまで彼の論説を知ることはないかもしれません。津田左右吉についても同じですが、このような例はⅠ~Ⅳ巻までにたくさんあり、挙げればきりがありません。


言葉を重ねるようですが、「この4巻にわたる著作の完成までに、どれほど沢山の文献・史料の蒐集と読み込み、そして分析の作業があったのだろう」と、ページを繰るごとに思うのでした。同時に、このような著作を書くには著者のゆるぎない「歴史認識」が存在しなければならないと思いました。本居宣長を軸とする「国学」という日本ナショナリズムの源流から近現代の歴史、そしてつい最近のこの国の政治・社会状況の分析までを貫く一本の太い柱は、まさに著者の揺るぎない「歴史認識」です。それは、日本国憲法に具現化された「平和と民主主義」を追求する視点に立つ「歴史認識」でしょう。



同時に、Ⅳ巻の「あとがき」に書かれている、現在の日本のありよう、とりわけ学校現場の状況を見続けてこられたことによる著者の怒りが、この『日本ナショナリズムの歴史』を書こうという原動力だったのですね。その仕事をなしとげられたことに深甚の敬意を表さずにはいられません。



読みながら感じたこと、考えたことはいろいろありますが、次のことだけはここに書いておきたいと思います。


 私は、今から29年前、天皇裕仁の死去に際してこの国に起こったことを私なりに記録し、「私自身のためのゼミナール Ⅳ」という小冊子にまとめましたが、それは、たまたま天皇の死という事態に際しこの国に起こったことの私なりのまとめのようなものであり、天皇制についての歴史的考察をほとんどしないまま、目の前に現れた現象をのみを考えたものでした。



 しかし、私の中には「なぜ日本人は天皇制という呪縛を解くことができないのだろう」という問いがいつもありました。それが、最初に述べたように、私がこの『日本ナショナリズムの歴史』を一気に読んだ理由です。


最近でも天皇の退位をめぐる問題がありますが、「天皇」そのものの存在を問うことはほとんどなく、「天皇制」が続くことは自明のようにして、あれこれと議論されています。元号の廃止などは、まず議論になりません。そして、学校現場における「日の丸・君が代」をめぐる思想・信条の自由を踏みにじる暴挙がまかり通る状況ひとつとっても、この日本という国は「天皇制」の呪縛に固く囚われています。それは、日本の歴史の中で、権力者が「天皇」を利用することによって国民を支配しようとすることが今も連綿として続いていることなのですが……。



 そのような状況のもとで、いま日本のナショナリズムの源流を求め、その後の日本の近現代史を貫く「神権天皇制の確立と展開」を分析し、さらには「日本国憲法」を持つ戦後の日本において、繰り返し繰り返し「先祖がえり」をしようとする流れのありようを糾明する。そのことの重要性をあらためて教えられました。



そして、私たちが今の状況を変えていくために、「日本近現代史の学習運動」を呼びかける。それは、このような著作をされた人でこそ、その「呼びかけ」ができるのであり、読者はその呼びかけにどう応えていくかが問われるのです。



 「快刀乱麻を断つ」という言葉があります。



私は本書を読み終えての感想を一言で言えといわれたら、この言葉を使うことでしょう。古代天皇の系譜から律令時代・戦国時代・江戸時代までのそれぞれの時代における時の権力者と天皇の関係は入り組んでおり、江戸末期から明治維新期の尊王攘夷運動での天皇(玉)の奪い合い、そして明治維新後の権力者と天皇の関係、さらに近現代史の中の天皇の果たした役割はきわめて複雑です。


 しかし、本書はそれらのことをまさに「快刀乱麻を断つ」如く、整理し、分析し、意味づけしてくれています。それは、重ねて言うようですが、「歴史」を書く人の「歴史認識」のありようが、確固としたものであり、日本の歴史全体を俯瞰する高みにあるからなのでしょう。


 『日本ナショナリズムの歴史・全4巻』に、私はほんとうに多くのことを教えていただきました。読みたてホヤホヤですので、きわめて雑駁な感想しか述べられませんが、本書を再読し私の「歴史認識」を一歩でも二歩でも著者のそれに近づけたらいいなあと心から思う次第です。



(2017年10月25日)

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