梅田正己のコラム【パンセ5】 「天皇メッセージ」をどう読むか

さる8月8日の「天皇メッセージ」についての各メディアの報道は、その重点をもっぱら「生前退位」に置いていた。天皇の意向がそこに向けられていたことはたしかだが、メッセージにこめられた“歴史的”ともいえる意味は、それだけにはとどまらないように思われる。

 

日本国憲法第1条では、「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって」と規定されている。

 

では、この「象徴」とは具体的には何をいうのか?

 

敗戦の翌1946年の5月から始まった制憲議会において、このことは議論の的となった。その中での憲法担当国務大臣・金森徳次郎の答弁がよく知られている。

 

金森は、「天皇は国民のあこがれの中心」だと答えたのだった。

 

昭和天皇はこの年、46年2月から早くも全国巡幸を開始している。神奈川、東京から始まって群馬や埼玉、さらに静岡、愛知まで年内に訪れている。その訪れた先々で、天皇は熱狂的な大群衆に囲まれた。

そうした光景から、金森は「あこがれの中心」と言ったのかも知れない。しかし憲法に書かれている用語の定義としては、あまりにも漠然としている。

 

 

日本国憲法下の初代の天皇は、言うまでもなく昭和天皇である。しかし生年1901年の昭和天皇は終戦時すでに44歳だった。つまり前半生は、大日本帝国憲法の「神聖不可侵」で「国の統治権を総攬する」「大元帥」、「現人神」だった。

軍服姿が背広姿に変わっても、過去の天皇観はそう簡単に切り替わるものではない。

たとえばここに雑誌『文藝春秋』の1985年3月号がある。そのメインの記事は、林健太郎、山本七平、渡辺昇一の3氏による座談会であるが、そのタイトルはこうだった。

――「大帝ヒロヒトの時代」。

在位60年を記念しての記事だったが、「明治大帝」に次いで昭和天皇も「大帝」となったのである。

 

戦後40年たってもこうしたイメージがぬぐえなかった昭和天皇にとって、その後半生を新憲法下の「象徴」として生きることはきわめて困難だったにちがいない。

 

その点、敗戦時までの幼少年期を戦争の時代に過ごし、13歳で新憲法の施行を迎えた現天皇は、最初から「象徴天皇」として生きることを宿命づけられた。当然、「象徴」とは何か、「象徴としての天皇」とはいかなる天皇像をさすのか、その難題に、自己の存在(レーゾン)理由(デートル)の根幹にかかわる問題として向き合わざるを得なかったであろう。

 

日本国憲法には、第7条に天皇の行う国事行為が列挙されている。

 

しかし、たとえば法律や条約の公布、国会の召集、総選挙の公示、大臣の任免、大使等への信任状や外交文書の認証、栄典の授与などを、内閣の助言を受けてこなすだけで、「日本国民統合の象徴」としての役割が果たせるものだろうか。答えは考えるまでもない。

 

では、いかなる行動・行為をとることによって天皇は「国民統合の象徴」となり得るのか。天皇の胸には、この難問がわだかまっていたにちがいない。

 

そうして問い続けた結果、見つけ出し、実践した「象徴天皇」としての「役割」を、天皇は今回の「メッセージ」で伝えたのである。一部を引用すると――

 

 

「即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごしてきました。」

 

「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、同時に事にあたっては時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えてきました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じてきました。」

 

「これまで私が皇后と共に行ってきたほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。」

 

引用の中で「務め」という言葉が2度使われている。先に引用した憲法第1条の天皇についての規定のうち「日本国の象徴」はその「地位」を示し、「国民統合の象徴」はその「役割」を指しているとすると、天皇は「地位」よりも「役割」を重視しているように思われる。

というより、「国民統合の象徴」としての役割を十全に果たしてこそ、天皇はその「地位」を認められると考えられているのである。

 

「象徴」とは何かということについては、国会での政府答弁が前記の金森答弁をはじめいくつもある。しかしいずれも憲法の条文をなぞったような抽象的な答弁で終わっている。政府と同様、国民もまた「象徴とは何か」について正面から問うことはなかった。

 

そうした中で、天皇みずからが問いつづけ、模索しつづけて、天皇の存在する意味は、「国民の傍らに立ち、国民を思い、国民のために祈る」という、その「務め」にある、と確信したのである。

 

したがって、高齢化によってその務め(役割)を十全に果たせなくなったときは、天皇はその「地位」にとどまることはできない、と考えられたことも“論理的”に理解できる。

 

 

ところがここに問題が生じる。皇室典範には、「天皇が崩じたときは、皇嗣(注・皇位継承者)が、直ちに即位する」とあり、皇位継承は天皇逝去の場合だけとなっていて天皇の生前の譲位を禁じられているからだ。

 

この生前譲位の禁止は、1889(明治22)年、帝国憲法の公布と同日に制定された旧皇室典範を引き継いでいる。そしてこの生前譲位の禁止の条項は、当時の首相・伊藤博文の強硬な主張によって定められたという。

 

明治維新において大久保利通や木戸孝允らとともに、当時まだ16歳だった明治天皇を「神権天皇」として国家の頂点に立て、自分たちはその「神権」の代理執行者となって新たな絶対主義国家をつくっていった伊藤にしてみれば、重要なのは天皇の存在そのものであって、その役割などではなかったのである。

 

天皇の役割といえば、これも伊藤が中心的起草者となってつくった帝国憲法では、天皇は「国の統治権を総攬す」となっており、その役割はいわば無限大だったともいえる。無限大ということは、なかった、というに等しい。つまり必要なのは、あらゆる政治的・思想的価値の源泉である、天皇の存在だけだったのである。

 

しかし新憲法によって、天皇は「象徴」となり、国政に関与することをいっさい禁じられた。では、天皇はいかなる行為・行動によって「象徴」としての存在理由を確保できるのか。その「答え」を、天皇みずから国民に対して直接語ったのが、今回の「ビデオ・メッセージ」だったのである。

 

新憲法の公布から70年、その第1条にあって、しかも歴代政府がその定義をあいまいにしか語れず、国民もまた正面から問うことのなかった「象徴」の意味と役割を、天皇みずからが語った今回のメッセージは、私にはまさに“歴史的”な出来事だったと思われる。(2016・8・11)

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