アジア新風土記(101)テレサ・テン(鄧麗君)





著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。



香港・香港島の繁華街、銅鑼湾(トンローワン)は中環(セントラル)のような高層ビルが林立する中に高級ブティックが最新のファッションを誇るところとは違って小さな通りに小さな市場、店が雑多に軒を並べる庶民的な盛り場だった。

気取らない街の一角にかつて「リーシアター(利舞臺)」があった。
1927年にオープンした西洋風の劇場は広東オペラ(粤劇=えつげき)から歌謡ショーまでエンターテイナーの憧れの舞台だった。



台湾の歌手テレサ・テン(鄧麗君)は76年、この劇場で初めてのソロコンサートを開く。両親は大陸の人だった。
河北省出身の国民党軍陸軍中尉だった父親は太平洋戦争後の国共内戦に敗れて台湾に逃れた。彼女は父祖の地と地続きの香港の舞台に立ち、香港の人、大陸の人を前に歌った。


この劇場で一度、広東オペラを見た。
俳優たちが「水袖(すいしゅう)」と呼ばれる袖口の長い白絹をひらひらさせながら甲高い声を張り上げていた。
京劇とは少しばかり肌合いの違う舞台を眺めながら、テレサの思いを想像した。


テレサは台湾中部の雲林県で生まれ、14歳でレコードデビューする。
歌手として最初に台湾を飛び出した先はシンガポールだった。
マレーシア、タイ、インドネシアと歌声は東南アジアの華人社会へと広がっていった。年寄りたちは望郷の思いを募らせ、二世、三世にはまだ見ぬ故郷への思いを膨らませる歌だった。

「私は中国人のために歌っているんです。台湾とか大陸とか、そういう区別はあまり関係ない。たぶんチャイナタウンの人は私の気持ちをわかってくれているんだと思います」(『テレサ・テンが見た夢 華人歌星伝説』平野久美子、晶文社、1996年 ※ちくま文庫在庫あり)


テレサの歌は華人社会の枠を超え、日本などに「歌迷(ファン)」が生まれていった。



透き通るような声は歌によって透明さの中に様々な色合いを含んで変化していく。
中国語の「月亮代表我的心」は甘く細やかな声がときに柔らかく強く情感豊かに心に入っていき、日本語の「別れの予感」になるとアップテンポの曲が明るく哀しく心に小波(さざなみ)を立てていく。
大都市に地方の小さな町に、レコード店があれば必ずといっていいほど彼女のCDがあった。


シンガポールの繁華街オーチャード通りのテレサは日本のテレビ局のライブ映像に現れ、若者らに囲まれながら「北国の春(我和你)」を歌った。

歌詞は日本語でもメロディーは彼らの知る「我和你」と同じ歌に、若者らの目は輝いていた。
インドネシアのスラウェシ島・マカッサルのスナックではヒット曲「甜蜜蜜」が流れていた。酔客らが彼女のインドネシア民謡をリクエストしていた。



台湾政府は知名度が上がれば上がるほど「広告塔」的な役割を担わせた。
彼女は国民党軍の慰問活動などには積極的に加わり、金門島からはスピーカーで対岸の厦門の人たちに反共メッセージを送った。

蒋介石が中華民国(台湾)の「国花」である梅の花にちなんで、「大陸反攻」宣揚のために奨励した「梅花」もコンサートでは決まって歌った。
「台湾と大陸を区別しない」という気持ちにどう折り合いをつけたのだろうか。




テレサは76年から81年まで5回、リーシアターで公演している。
回を重ねる度に、中国の街でありながらヨーロッパの匂いが色濃く染まった香港に惹かれていく。

慣れ親しんだ世界とは異質の都市は、彼女にとって暫しの休息の地になっていったのか。香港にいるときはいつも銅鑼湾からトンネルを抜けて南側のスタンレー(赤柱)で暮らした。
小さな湊町の浜辺には明るい日差しが常に差し込み、地中海の海岸を思わせる風景だった。




89年の北京・天安門事件は離れ難い香港との別れをもたらす。

5月27日、リーシアターから少し奥に入ったハッピーバレー競馬場は天安門広場の学生らを支援する約30万人の市民らが集まっていた。
彼女はその集会に飛び入り参加する。「民主万歳」と手書きされた鉢巻きを締め「我的家在山的那一邊(私の家は山の向こう)」を歌い、歌い終わって気勢とも叫びともつかない鋭い声を発した。サングラスはその奥に潜む感情を隠した。
長年の夢だった大陸でのコンサートは6月4日の事件で頓挫、11月にはパリに旅立った。



95年5月8日、テレサはタイ北部のチェンマイで死去する。42歳だった。
気管支喘息の発作に見舞われたという。

遺体はタイから台湾に搬送され、「国葬」が執り行われる。
柩は台湾の「国旗」である青天白日満地紅旗で包まれた。

彼女が眠る筠園は台湾の新北市・金宝山墓園の一角にある。
東シナ海を望む地はいつも歌迷らの捧げる四季折々の花で飾られ、彼女の歌が流れていた。



5月8日の命日には多くの歌迷(ファン)がかけつける。





香港のファンクラブが掲げた。




筠園は本名の鄧麗筠からつけられた。






台北の中正紀念堂で生誕60年の特別展が開かれた。

 

「悲しい自由」という歌がある。89年7月にリリースされた。
10月の日本での「テレサ・テン15周年記念スペシャル」で歌う前、日本語で話しかける。


「私はチャイニーズです。世界のどこにいても、どこで生活してもチャイニーズです。だから今年の中国の出来事すべてに私は心を痛めています。中国の未来がどこにあるのかとても心配しています」


テレサの「チャイニーズ」とは何だったのかと思う。
国家、民族などに関係のない素朴な「中国人」というほどの意味だったのか。



台湾の政治大学選挙研究センターは戒厳令解除から5年後の92年から台湾の人たちのアイデンティティの動向調査を続けている。
彼女が亡くなった95年は「台湾人であり中国人である」が半数近く(47.0%)を占めたものの、「台湾人」が25.0%で「中国人」の20.7%を初めて逆転する。

1年後には最初の総統直接選挙が実施されるなど民主化は進んでいく。
人々の台湾人意識もまた年を追って「普通のこと」になっていき、2024年は「台湾人」(63.4%)が「台湾人であり中国人である」(31.0%)を圧倒する。「中国人」と答えた人は3%(2.4%)にも満たなかった。



テレサがいま生きていたら72歳になる。
同じ質問に「台湾人であり中国人である」と答えただろうか。
「私は台湾人です」という明快な答えは返ってくるのか。
チャイニーズとしての孤独はより一層深まっていたかもしれない。


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