アジア新風土記(136)林則徐






著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。




香港の冬は思いの外早く来ることがある。
11月に入り、ビクトリア港に小さな波頭が立ってくるとコートの上を通り過ぎる北風に肌寒さを感じ、気持ちまでが心なしか沈んでくる。

アヘン戦争当時の中国・清朝にあって英国などと対峙した林則徐の晩年を思うとき、政争に敗れて左遷地イリに着いたのも初冬のころだったという覚えが頭の片隅にあった。

亜熱帯の香港と西域のイリでは自ずと秋から冬にかけての風景も異なるのだろうが、辺境の地にはものがなしさの伴う風が吹いていたのではという想いは残った。







中国に返還された1997年7月の直前、九龍半島の尖沙咀(チムサーチョイ)から高速フェリーで珠江を遡った。三角州の広がる珠江河口は幾筋もの流れがあり、その一つの虎門水道を進んでいくとほどなく広東省・虎門に着く。
欣差大臣林則徐が1839年に英国の貿易商らから押収したアヘンを焼却した場所だ。


虎門は清朝時代、広州の南の玄関口といわれ、林らによって虎門要塞として整備される。跡地には彼の座像が立ち、河岸には遺された砲台があった。
砲身を珠江に向けた砲台の周りを観光客らが取り囲んでいた。


砲台近くに海とも江(こう)ともつかぬ茶褐色の水面を見ながら、アヘン戦争前夜の空気を想像する。

ゆったりとした流れに逆らって上ってくる英国の木造帆船、蒸気船に、江戸時代末の黒船来航が重なってくる。清朝末期道光帝の19世紀前半、皇帝を中心とする中華思想は異国はすべて「蕃夷」であり、広州一港に限った交易もまた朝貢貿易しかなかった。

広州を訪れた外国船はその頃すでに年間100隻を超えるほどになっていたというが、他国に対して一様に臣下の礼をとるべきだとする考え方は徳川幕府などには計り知れないほど強烈だったのではないか。



清朝は欧米列強の開国要求への対応に苦慮していた。
英国商人らがアヘンを捌くことで大量の銀が海外に流出、財政状況も逼迫(ひっぱく)していた。アヘンの押収は林の最も強硬な施策だった。

押収したアヘンは1400トン以上といわれ、処分は珠江河畔に大きな池を掘り、アヘンに石灰と塩分を含む海水を混入、珠江の干満差を利用して河口から海に流すというものだった。膨大な量のアヘンを処分するのに20日以上を要した。


林則徐は米国人宣教師が発刊する月刊雑誌『中国叢報』など英語の雑誌、書物を翻訳させ、商人らからも世情を聞くなど海外事情には精通していた。
英国の実力を熟知していた彼が、英国にとって手放すことの出来ないアヘンを根絶するという強い意志を持てたのはなぜか。愛国心だろうか。


1785(乾隆50)年、福建省に生まれ、科挙合格後は雲南郷試正考官、江蘇按察使、湖広総督などを歴任、道光帝にも重用される。

謹厳実直の性格は当時の官僚には珍しく、人々の信頼も厚かった。
実直さが英国などとの正攻法の戦いをもたらしたともいえた。
しかし、英軍が一気に北上して浙江省舟山列島を襲い、上海、北京を窺う情勢になって、立場は脆くも崩れる。
1840年、欣差大臣の職を解かれ、後任には北京周辺省を総括する直隷総督琦善が起用された。



アヘン戦争の発端は英軍北上の1年前の39年、尖沙咀の海岸で英国船員が地元村民と喧嘩、撲殺したことだった。船員の引き渡しを求める清朝と英国の交渉は難航、やがて珠江河口付近で戦火を交えることになる。
41年、琦善は英国に対して香港の割譲を約束する穿鼻仮条約を結び、翌年の南京条約で正式に割譲に合意する。



「香港」の名前は交渉の過程で出てくる。英国による唐突な申し出だったのか、あるいは相当の事前準備があったのか。

戦場は英国が拠点としていたポルトガル租借地マカオと広州であり、香港はたまたま英国船員が立ち寄ったに過ぎなかった。英国はなぜ本国で伝染病の蔓延する暑くて湿潤な「不毛の島」といわれた香港の割譲を主張したのか。他の列強の権益がまだ及んでいない場所を探していたのか。

マカオ周辺の海は珠江からの大量の土砂によって次第に浅くなっていたものの、当時の主力船だった喫水の浅い帆船にとっては問題にならなかった。
深い海を持つ香港に戦略的価値を見出した海洋国家に時代を見る力があったと言うべきか。

林は香港割譲には関与せず、香港という土地への関心はほとんどなかったのではないか。それでも彼が欣差大臣であったならばアヘン戦争は回避できたのではという思いはどこかにある。戦争が不可避であり、清朝劣勢のまま停戦したとしても、アヘン破棄という荒業を実行した彼ならば、容易く英国側の要求を受け入れただろうか。英国植民地・香港が存在しなかったならば、近世のアジア史は大きく変わっていたかもしれない。



蓮峰廟の林則徐紀年館

林則徐の像はマカオ市街地北部の蓮峰廟にもある。
廟周辺は中国人が多く暮らし、街並みもまたポルトガル風の南部とは違っていた。

境内に人の往来は少なく、本堂を正面にみて右側の境内隅に立像とポルトガル代表との会見の場を描いたレリーフがあった。

アヘン廃棄直後、林はポルトガルに中国国内でのアヘン取引禁止を承諾させる。清朝と英国との争いに中立を保つことも同意させ、列強の「連合」を防ぐことに成功する。林にとって欣差大臣としての絶頂期だった。





林則徐の高さ1メートル80の石像





林則徐は蓮峰廟でポルトガル代表らと交渉した



アヘン戦争が続いていた41年、林はアヘン処理の責任を問われて新疆伊犂(イリ)への派遣を命じられる。北京の紫禁城は大量のアヘンを廃棄する「暴挙」が不本意なアヘン戦争を呼び込んだとみなした。イリには42年12月に入る。失意の中にも灌漑などの農地改革に精を出し、地元民らに慕われたという。


西安の西、河西回廊・嘉峪関を過ぎて詠んだ『塞外雑詠』に一首ある。

天山萬笏聳瓊瑤 導我西行伴寂寥

我與山霊相對笑 満天晴雪共難消


冒頭は天山山脈の壮大な山並みを眺めながら玉(瓊瑤)の石板(笏)のように聳える急峻が孤独の心を慰めながら任地へと導く、というほどの意か。
天山山脈の雄大な自然を詠んだとも言え、どこまで彼の心情を投影していたかの解釈は人それぞれだろう。

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