アジア新風土記(128)香港・ビクトリア公園





著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。




香港に朝日新聞記者として初めて赴任した1990年4月、最初に泊まったホテルは香港島・銅鑼湾(トンローワン)のパークレーンホテルだった。
ビクトリア(維多利亜)公園に隣接したホテルの部屋からは公園が見渡せた。

早朝に太極拳のゆったりとした動きを追い、昼にはアマ(お手伝い)さんに手を引かれるお年寄りたちを眺めた。

日が沈むと照明灯の下にサッカー、バスケットボールに興じる若者らの姿があった。テレビは台湾の記者が特報した北京・天安門事件のリーダー柴玲氏の海外脱出を伝えていた。公園が香港の人たちと事件を結びつける特別な場所になるとはまだ想像もできなかった。








ビクトリア公園は香港人には様々な感情が交差する公園だ。
人々が集まり、それぞれの思いに共感、共有する場はこの公園しかなかった。

香港の人たちは折に触れて訪れ、季節の移ろいを楽しみながら今日明日を生きている。狭い通り、路地に人と人がぶつかり合い、せめぎ合っているかのような香港にあって、砂漠のオアシスのような空間だった。


公園の春は春節(旧正月)を前にした年の瀬の「年宵花市」が運んでくる。花の香りに満たされると年末の慌ただしさが消え、新年への思いが膨らんでいく。

三分咲きの桃花が優雅さを競い、百以上もの実をつけた金柑が芳醇な甘さを辺りに発散させていた。水仙は清楚なイメージにはそぐわないほど堂々としていた。
蕾(つぼみ)の固い牡丹の鉢植えも豪華だった。

人々は花の一つ一つを品定めしながら春の到来を実感する。
九龍半島・新界地区の桃の木が広東省産よりは品があるといって好む人が以前は多く、そこに香港人の「大陸とは違う」という一種の独立心、自尊心をみる思いがした。いまはどうなのだろうか。


春が盛りを迎える5月になると、公園はホウオウボク(鳳凰木)の鮮紅色の花に包まれ、ジャカランダもまた青紫色の花を開花させていく。毎朝の常連は剣舞の修業に励む人、フラダンスを学ぶ人、ジョギングに汗をかく人たちだ。

週末にはフィリピン、インドネシア、マレーシアなどから出稼ぎにきているアマさんたちが賑やかに、溢れんばかりの笑顔を見せる。

故郷の料理を並べ、国の家族らの写真を見せ合い、異国の公園を自分たちの世界に変えてしまう。かつては英語のできるフィリピン人アマが圧倒的だったが、返還後の社会で中国語の使用頻度が高まるにつれ、英語に堪能ではない人たちも目立ってきた。



木々の緑が日ごとに色濃くなっていき、湿潤な空気が街全体を覆い始めると、人々は香港が亜熱帯にあることを肌で納得させられる。

暑い夏をやり過ごしてやがて北側のビクトリア港からの熱風が次第に弱まってくると、空は次第に高くなっていく。

旧暦8月15日の中秋節は縁起のいい赤を基調にした提灯を売る夜店が公園に並ぶ。夕暮れどきになるとあちらこちらで十五夜の提灯を照らし、ろうそくを立てる家族連れに出会った。

家々に伝わる月餅を味わい、月見を楽しみながら、先祖への思いは深く、際限がないかのように感じた。ホンコンラン(洋紫荊)が蕾を膨らませるのもこのころだ。枝先の一輪に続いて次々に赤紫色の花が咲き出し、秋の深まる公園を彩る。




ビクトリア公園は「香港」を強く意識するところでもあった。
返還前、政治、文化、食生活などを題材にして意見をたたかわす人たちに出会ったときは、ロンドン・ハイドパークのスピーカーズコーナーを懐かしく思い出した。植民地にも英国流の自由な文化が根付いていると友人に話すと、公共放送局「香港電台」が制作する討論番組「シティーフォーラム(城市論壇)」の収録場所だと教えてくれた。



シティーフォーラムは80年4月に初放送され、毎週日曜にラジオ、テレビで生放送された。

各界の専門家、議員、政府関係者らがゲストで登場、関心の高いニュースを中心に市民らも意見を述べることができた。

84年9月には香港返還に関する中英共同声明が議論される。
89年の天安門事件直後には香港の未来における学生運動がテーマになった。
番組はビクトリア公園以外でも開催されてきたが、返還後は政治的に敏感な話題は少なくなっていく。2020年に混雑回避を理由にライブ討論が中止になり、番組自体も21年に終了した。



自由な言論へ締め付けは20年の国家安全維持法(国安法)施行に続く条例の補完によって益々厳しくなり、26年6月には行政長官の裁量で「国家の安全を害する犯罪事案」を認定できる法令も明文化された。

24日は扇動的な出版物を販売したとして書店を経営する元民主派区議ら二人が国安条例違反で逮捕される。書店は公立図書館には置いていない政府に批判的な書籍などを取り揃え、これまでにも度々立ち入り検査を受けていた。

国安法違反で2月に禁固20年の判決を受けた蘋果日報(アップル・ディリ―)創業者黎智英(ジミー・ライ)氏の伝記も扱っていた。同紙が発行停止に追い込まれたのは5年前の24日だった。同じ日の逮捕に当局の意図を感じなくもない。


毎年の6月4日夜の天安門事件犠牲者追悼キャンドル集会は香港人のアイデンティティーが最も高揚する夜だった。人々は公園に座り込み、中国の民主化を訴えた王丹氏のメッセージを聞き、肉親を失った家族らに寄り添った。
事件の翌年から始まった集会は20年から開かれていない。
主催団体はすでに解散した。


26年のこの日、改めて「香港」を自覚させるものはなかった。
7月1日の返還記念日もまた普通の公園風景だった。

中国に回帰した「慶事」を祝う式典が湾仔地区のコンベンション・エキシビジョンセンターで行われても、会場から1キロほどの公園に自由社会を求める人たちの声はなかった。



ビクトリア公園は1957年、ビクトリア港の一部を埋め立てて造られた。
広さは19万平方メートル。芝生広場、サッカー場、テニスコート、プールなどで構成され、17か所の入口がある。

トラムの走るコーズウェイ通り(高士威道)から正面入口を入るとビクトリア女王像が目の前にあった。即位60周年を記念して香港島・中環(セントラル)に建てられたが、戦前戦後の日本軍の撤収・返還を経て公園に移された。


女王像は返還直前の96年9月、大陸出身の美術家に真っ赤なペンキをかけられる。大英帝国のシンボルの撤去は時間の問題とみられたが、同様の事件は続かず、銅像はいまに残る。「中国の香港」になった地に一介の女王像など取るに足りないということか。


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