アジア新風土記(127)バシー海峡




著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。














台湾南端の岬、鵝鑾鼻(がらんび)に立つと目の前にはバシー海峡の海が広がっていた。海峡のイメージには程遠く、微かに波間を見せるだけの大きな海だった。



岬の高台からバシー海峡を望む







海峡は東の太平洋と西の南シナ海をつなげ、遥か南でフィリピン・ルソン島にぶつかる。ロシアがまだソ連だった時代、ソ連の原子力潜水艦がインド洋、マラッカ海峡を経てウラジオストク港に向かうところを朝日新聞社機で追ったことがある。浮上して航行しているかも定かではない原潜を捜した記憶が蘇る。


岬の波打ち際は観光スポットだ





バシー海峡は台湾本島とルソン島の間の幅約100キロの海上交通の要衝だ。
中央部の水深は1500メートルを超える。

海峡周辺はいま、東アジア各国にとって安全保障上の重要なエリアになりつつある。日本には中東の石油を積み込んだタンカーの大半が通過するシーレーンの要に位置する。
南シナ海スプラトリー(南沙)諸島海域での中国艦船との衝突が続くフィリピンは2023年から米軍にルソン島北部の一部空港、港湾の利用を認める。

中国にとっても海南島を基地とする原潜が太平洋に抜けるルートだ。
台湾北部と日本の南西諸島に挟まれた海域は原潜が潜行して通過するには水深が浅過ぎると言われている。



フィリピンのマルコス大統領は26年5月28日、東京で高市早苗首相と会談、軍事情報の共有円滑化を目的とした「軍事情報包括保護協定(GSOMIA)」締結と排他的経済水域(EEZ)や大陸棚の海洋境界画定の交渉開始で合意する。

マルコス政権は軍事力増強が喫緊の課題であり、日本からの軍事装備提供を期待する。日本側も南シナ海周辺でフィリピン軍が得たデータなどを入手できる。
フィリピンは米国と同様の協定を結んでおり、日米比3か国が情報を共有するメリットは大きい。


6月4日の米比両軍の大規模合同演習「バリカタン」には日本の自衛隊も初めて本格的に参加、バシー海峡南のルソン島北部ラオアグでの演習に陸上自衛隊水陸機動団が上陸敵軍を想定した訓練に加わる。「あぶくま」型護衛艦の退役後の売却計画も進んでいる。



日本とフィリピンにとって台湾との協調は欠かせない。
フィリピンは25年に政府関係者の台湾との交流規制を緩和して台湾訪問などを許可したほか、台湾人のノービザ入国も認める。バシー海峡で比台双方の海岸警備隊による共同巡察を行ったとも報じられた。

台湾には約20万人のフィリピン人が働いているだけに「台湾有事」には海峡の航行をいかに確保するかが懸案として浮上する。マルコス大統領は訪日前「(台湾有事に)関与するかはフィリピンに選択の余地はない」と語る。

高市首相は11月の国会答弁で台湾有事の際には存立危機事態になり得ると語って中国との関係悪化をもたらしたが、首相の念頭にはすでに対中抑止の一員としての台湾があったのではないか。


日比蜜月時代はどこまで続くのか。マルコス大統領の任期はあと2年しかない。
ドゥテルテ前大統領は中国への友好的な姿勢に終始、後継の長女サラ・ドゥテルテ副大統領は26年2月に出馬を表明する。どのような政策を目指すのか。

彼女は5月11日に下院によって公金不正使用の疑いなどで弾劾訴追される。
上院での弾劾裁判の日程は未定だが、有罪となれば立候補資格を失うだけに、次期大統領選は流動的で波乱含みだ。


日本も高市後の首相が日中関係の改善に乗り出すことは十分予想される。

米トランプ大統領は2年半後には退く。彼の言動もまた任期中に限った米国のスタンスとみるべきかもしれない。東アジアの外交軍事情勢は半年、1年でドラスティックに変化するとは考えにくい。少し長い視点に立てば、次のリーダーの動向によって状況が大きく変わる可能性を孕んでいる。フィリピンとの連携に性急ともいえる日本の姿勢には危うさが伴う。


中国は日本への強硬な態度を崩しておらず、対抗措置として軍民両用製品の輸出規制を強化、3月のレアーアース磁石輸出量は前年同月比27.2%減の184トンだった。訪日客も29万1600人(前年同月比55.9%減)にとどまる。

日比のEEZと大陸棚の海洋境界画定交渉を牽制して台湾東部海域への艦船出動も繰り返す。
外務省会見などでは「新型軍国主義」という言葉で批判、メディアも多用するようになり、高市政権非難の一つの決まり文句になりつつある。
中国にとって台湾問題への発言について妥協することはできず、日本も首相発言の撤回は今後の対応の選択肢を狭めることになる。高市首相在任中の関係修復は見通しが立たない。



新型軍国主義は東アジアを中心に各国の安全保障担当者らがシンガポールに集う「アジア安全保障会議(シャングリラ・ダイアローグ)」でも焦点の一つになる。

会議は03年から始まり、今回は5月29日から開催された。
第1回会議の会場だったシャングリラホテルの名前からシャングリラ・ダイアローグと呼ばれるようになった。


日本の小泉防衛相は新型軍国主義に対して「平和国家としての日本の歩みは国際社会で評価されている。これがただ一つの事実であり、虚偽の主張で揺らぐことはない」と反論した。

中国は代表団トップの孟祥青・国防大学教授が分科会で「軍国主義を清算していない国に、国際舞台で防衛協力を語る資格があるのか」と述べる。
フィリピンは高市政権が4月21日の閣議決定で防衛装備移転三原則を改定、武器輸出を全面解禁したことを好意的に受け止めたが、他のアジアの国々はどう見ているのか。防衛相のいう「平和国家としての日本」をいかに具体的な行動で納得させられるか。



中国軍で台湾方面を管轄する東部戦区報道官は4月17日、海上自衛隊の護衛艦「いかづち」が台湾海峡を午前4時2分から5時50分にかけて通過したと発表した。いかづちはバリカタン参加のため東シナ海から南下した。高市首相の台湾有事発言後の初の護衛艦通過だった。

4月17日は1895(明治28)年の「日清講和条約」調印の日に重なる。
日清戦争に勝利した明治政府が清朝全権大使・李鴻章を下関に呼び寄せて台湾を割譲させた条約のまさにその日だった。「歴史的な日」の台湾海峡通過が偶然だったか否かはわからないが、徒(いたずら)に中国を刺激しかねない行動とも言えた。歴史問題への感覚の鈍さを思わざるを得ない。

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