アジア新風土記(122) 台湾の夜市




著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。




台湾の夜は夜市が楽しい。初めての街を訪れたときなどは、日が暮れかかってくるとホテルにいても、どんな夜市が待っているのかと気もそぞろになってくる。

子どもの頃、祭りになると神社の境内などに屋台がかけられる作業の終わるのが待ち遠しく、急ごしらえの屋根から吊るされた裸電球が灯り始めると屋台の一つ一つを心を弾ませながら見て回った。そのころの気持ちを夜市が思い出させてくれる。



台湾の夜市はみな、それぞれに特色があった。






高雄の瑞豊夜市は高雄駅から新幹線発着駅・左営行きの地下鉄で3つ目の巨蛋駅が近い。屋台は3300平方メートルほどの敷地に1000店を超す。
並び方に法則性はなく、小吃(軽食、小皿料理)の店の隣には、アクセサリー、ストラップの店があり、そのまた隣にはTシャツの店があり、向かいにはゲームコーナーがあったりした。




高雄・瑞豊夜市。「檸檬愛玉」は愛玉という植物の種を固めたゼリーにレモン汁をかけたスィーツ


港町・高雄だけあって海鮮料理の屋台が多く、烤大蝦(エビ揚げ)、香酥螃蟹(カニのフライ)などの店はいくつもあって迷う。

狭い通路を押し合うように歩く人たちは多くが地元の人たちだ。高校が近くにあるからか若い人たちが目立つ。外国人の姿はめったに見かけない。高雄の中心部から離れているからかもしれない。


メニューのすべてを食べるにはどのぐらいかかるのか





台湾の人たちの日常生活に欠かせない夜市を歌った歌がある。

「今夜は皆で夜市へ繰り出そう。粋に決めて、化粧も忘れずに。老若男女やカップルが通りにあふれ、にぎやかに行き交う。山の幸、海の幸の屋台が連なり、誰もが舌鼓を打つ」

中国福建省の言葉で台湾語といってもいい閩南語の作詞作曲家、鄭進一が1991年に発表した『夜市を歩く』だ。(『台湾光華雑誌 Taiwan Panorama 』2010年12月)






夜市の歴史は古く、始まりをどこにするかは難しい。

中国・北宋(960~1127)の首都、開封の都市生活を綴った孟元老の『東京夢華録』には「杏仁糕」「清汁田螺湯」などの小吃(シャオチー/シャオツー)が売られていた夜市風景が描かれている。
台湾では清朝時代の17世紀以降、福建省、広東省から渡って来た人たちが原野を開墾、天秤棒を担いだ行商人もまた後を追った。
人々が集まる所にはその土地の守り神として廟が建てられ、夜市も自然発生的に生まれたともいわれる。


廟の回りにできた夜市を、台北の龍山寺界隈にみる。
大陸からの移住者らは淡水河を遡り、台北西部の萬華辺りで船を降りた。
「萬華」は先住民ケタガラン族の丸木舟「ヴァンカ」からきている。
街は古刹を中心に広がり、寺と淡水河に挟まれた広州街、華西街には夜市ができる。華西街は蛇料理で観光客を惹きつけ、広州街は名物料理はないものの、通りに店を構える商店に屋台、車が入り混じり、裏通りには娼家もあって雑然とした魅力を漂わせていた。龍山寺詣での人たちも参拝した後には決まってそぞろ歩きしたのだろうと、夜市の始まりを思い浮かべながら眺めてみた。










台北はいま、東へ東へと発展している。
市役所も「台北101」ビルもすべてが東部に集まっていく。
淡水河畔の萬華はオールドタウンといった趣きで少しばかり寂れてきた感じがしないでもない。寺詣での人たちに一日がかり、半日がかりの人が少なくなってきたことも影響しているのか。


基隆・奠済宮前の屋台

廟前の賑わいは台湾北部、基隆の中心部にある奠済宮門前、廟口夜市に譲る。
名前こそ「夜市」だが、昼間から200店以上が店を開ける。
海鮮小吃が人気で象魚湯(ゾウギョトウ)が名物だ。

象魚はアイゴのことで岩礁などに生息、主に海藻類を食べる。ヒレの棘には毒を持つ。水揚げされた時しか出回らず、足も早いので台北までは持っていけないという。身が磯臭いので臭肚魚とも呼ばれているが、淡泊な白身は深みのあるスープと相まって臭いはほとんど気にならなかった。




象魚湯





日本植民地時代の基隆は日本本土、沖縄からの航路があり、台湾を訪れる人たちの玄関口だった。廟口夜市近くに暮らしていた日本人も多く、村祭りを楽しむように夜市を歩いたのかもしれない。
戦前、台北にあった日本人街の一つ、西門町を紹介する冊子に台湾人商人が日本人は値切らないからお得意さんだという話が載っていた。基隆の夜市でも日本人は上客だったのだろうか。









台北・士林夜市の大鍋料理に誘われる

台北北部の士林夜市は18世紀中頃、基隆河の渡し場近くの慈誠宮前に船で運ばれた農産物の市が立ち、やがて夜市になった。
1909年に開設され、2011年に現在のビルに収まった。
地下の食堂街は小吃定番の蚵仔煎(オアチェン/牡蠣のオムレツ)、関東煮(おでん)に、臭豆腐、肉圓などが競い合うように客を呼び込む。

故宮博物院の地下鉄最寄り駅とは一駅違うだけで外国人も多い。
ビル入口近くの、顔の産毛を細い糸で抜いていく「挽面」の店を興味津々で見入っていた。










ビルの中に店が整然と並ぶ夜市も悪くはないが、風情を楽しむということでは、やはり野外がいい。夜空の下の夜市は台南の花園夜市が群を抜くのではないか。



台南・花園夜市は「不夜城」と見紛うほどだ


毎週木曜から日曜にかけて開かれる。訪れた時は空に星はなく、夜市だけがぽっかりと浮き上がっていた。
小吃名を染め抜いた幟(のぼり)、手書きの大看板が闇夜を突き上げるかのように立っていた。蛍光灯、裸電球が照らし出す「地瓜球(サツマイモボール)」「麻辣鴨血(マーラーヤーシュエ)」などの屋台に輪投げ、射的の店などが続き、売り子たちの呼び声、取り巻く人々のにぎやかな笑い声も一瞬のうちに辺りのブラックホールのような闇に吸い込まれていった。


幟と大看板の下で小吃を満喫する



夜市は台湾全島で大小合わせて300を超えるといわれる。
夕食が気軽にとれる便利さに、生活雑貨、衣類、家電製品、アクセサリーなども簡単に手に入ることも人々の足が向く理由の一つだ。


戦後の国民党独裁時代は屋台を出す露天商は営業許可証が必要とされるなど厳しい管理下にあった。
政治的集会などを常に取り締まっていた政権にとって、夜市もまた警戒の対象だった。夜市に出かける人たちもいつ拘束されるかわからなかった。

安心して夜を歩けるようになったのは、戒厳令が1987年に解除された後の民主化が進んでからだという友人がいた。
いまの夜市には「縁日」にはない成り立ちがあると思い直す。

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