アジア新風土記(116) 台北・永康街





著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。






台北に暮らしていたとき、永康街界隈を歩くのが好きだった。500メートルあるかないかの永康街と横に並行する麗水街はいくつもの小さな路地でつながり、簡単な麺などを出す小店、少し大きな飲食店が軒を連ねていた。店の看板を一つひとつ確かめながら、その日のランチ、夕食を決めるそぞろ歩きを楽しんだ。



永康街





夜の永康街




小店の多くは間口が狭く、奥行きもない。何回も通って顔なじみになると女将が一見さんには見せないような笑顔を返してくれる。注文も大体決まっていて、具材を少しばかり足してくれるからまた来たくなる。




永康街は台北のほぼ中心に位置する中正紀念堂から信義路を東にほどなく行ったところにある。日本統治時代には日本人が多く住んでいた辺りだ。
敗戦後の引揚げで空き家になった家は大陸から来た人たちの住宅になり、次第に飲食街へと変わっていった。台湾に元々あった料理から上海、広東などの大陸菜(料理)、東南アジアのエスニック料理と、様々な味を詰め込んでさながら台湾の料理見本市みたいな通りだ。


思い出すままに店の名前を挙げていくと、その店の一つひとつの味が口のなかでふぁ~と広がっていく。店の由来などを追っていくとそこに台湾近代史の風景が垣間見えてくる。箸を進めながら、台湾の歩みに思いを馳せるときも少なくなかった。


台南名物の擔仔麺が売り物の「度小月」はエビをベースにしたスープに豚肉そぼろが麺にからんであっさりとした味だ。海の荒れる夏は「小月」と呼ばれ、出漁できない漁師たちが天秤棒で麺を売り捌いていたことからきたという。台南の擔仔麺発祥店の前には228事件で処刑された日系弁護士、湯徳章の銅像が立つ民生緑園があった。彼もこの麺が好きだったのだろうかと小椀をすすっていると、小さな器はいつの間にか空になっていた。



「喫飯食堂」という台湾料理屋は木札のメニューに写真入りもあって、あれこれ考えることがなかった。ハマグリ(蛤)とヘチマ(糸瓜)を蒸した蛤蜊蒸絲瓜はテーブルの上にいつも潮香を感じる。台湾の海岸は砂浜の他に何もないようなところにも海鮮料理の店が立つ。北部の基隆から淡水への道を冬に走っていた時に見た店の品書きにもハマグリスープがあった。東シナ海からの寒風が隙間風となって入ってくるような店だったが、塩気とハマグリのエキスが混ざり合った素朴な味を堪能したことを思い出させてくれた。



喫飯食堂のメニュー



蛤蜊蒸絲瓜と炸豆腐


台湾北東部の宜蘭地方は大陸の人たちの進出が遅く、昔ながらの土地の味が色濃く残っている。その郷土料理を看板にした「呂桑食堂」の宜蘭肝花は魚醬、刻みネギ、豚肉などに豚の肝臓を加えて油揚げで包み込んで炒めたものだ。
「花」というネーミングに反して少しばかりきつい味だった。


宜蘭肝花



日本の鯖煮と同じような献立もある。
魯肉飯はご飯の上に豚のバラ肉が甘辛いたれと一緒に載って旨いが、知人には食べ過ぎると体に悪いとよく注意された。日本でもちょっとした人気になってテレビコマーシャルなどに出てくると、少しばかり懐かしくなる。
宜蘭特産の金柑をお湯に溶かした金棗(金柑)茶は店のサービス。口当たりがすっきりとして何杯でもお代わりができる。暑い夏の日は金棗茶飲みたさに店に入ったことも度々だった。




上海料理の「高記」は、国民政府・蒋介石が国共内戦に敗れて成都から逃れてきた1949年の創業だ。国民党と一緒に上海の店を畳んできたのだろうか。
日本植民地時代までの台湾菜に一味も二味も加えた大陸菜はこの時期に国民党軍将兵らが持ち込んだと言われるものも多い。
いまではすっかり台湾菜になった牛肉麺も「原産」は大陸だ。麗水街と交差する金山南路の「永康牛肉麺」は香港まで知れ渡っていて、香港の友人が食べたいというので出かけた時は50メートルを超えるほどの行列だった。別の店を紹介したものの、満足してくれたかはわからない。


天津葱抓餅はどうなのか。
何層にも重ねられた生地に刻みネギを包み込んで平らなプレートで焼き上げるもので、天津、山東省などの葱油餅(ネギ入りパイ)が変化したともいわれる。「天津」とはあまり関係はなさそうだ。往来の一角にスタンドがあり、店頭で焼き上げていく。香ばしいにおいは並んで待っている人たちだけでなく、通りを行き来する人の食欲を誘ってくる。


日本の味は影が薄い。生魚片(刺身)を出す店は本格的なものではなく、どこまで新鮮なのかと尻込みしてしまう。日が落ちてくると日本風の居酒屋にも灯りがつくが、暖簾をくぐったことはなかった。通りの成り立ちからみて、日本料理とはあまり縁がなかったということかもしれない。



呂桑食堂から通りを挟んだ向かいにはガジュマル、大王ヤシなどの大木に囲まれた永康公園がある。喧噪から離れて涼んでいるとき、隅に蒋介石の黒い胸像を見つける。案内板には「どこにあったか想像してください」とあった。戒厳令が解除され民主化が進む前は公園の中央にそれも黒くはなかったのではと、台湾人の心の一端に触れた気がした。




永康公園




永康公園の蒋介石像


永康街で目にする料理は台湾菜の特長の一つである小皿料理がほとんどだ。一品、一品の量が少なく、一人で食事する時でもいくつもの種類が注文出来る。
大皿に盛られることの多い大陸菜もいつの間に台湾風に少量になっているのはおもしろい発見だった。

小皿料理はルーツを探っていくと屋台などに見かける「小吃(軽食)」にいきつく。詩人で食通の焦桐氏は小吃について、移民の歴史と深く結びついていると語る。


「清代に福建や広東からの移民が台湾を開墾したさいには、しばしば独力で大海を渡ってきた。(中略)寺廟周辺の小吃は代々伝えられ、人々がよりどころにする古くからの滋味として根付き、厨房の火はますます盛んに燃えるようになった。台湾の小吃はこのように、仏寺や神廟と歩みを同じくして発展してきたのである」

『味の台湾』みすず書房、川浩二訳、2021年



2024年1月、台湾総統選のときに台湾を再訪、永康街を久しぶりに歩く機会があった。「度小月」のあったところは別の店が入っていて、台北北部に移転したと聞いた。「高記」は永康街を離れ、新たに店を構えた。心のどこかに仕舞い込んでいた想いまでが消えそうになったが、新しい魅力ある店に出会えるかもしれないと、思い直してもみた。

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