アジア新風土記(104)香港・ライチ(茘枝)の季節





著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。




香港の6月は春先からの湿潤な空気が少しずつ消え、日差しは強烈になっていく。市場などにライチ(茘枝)が出回り始め、人々は待ち構えていたかのように買い求めて飲茶の話題にする。

ライチの旬が6月を挟んで1~2か月ほどと短いことも関心を集める理由の一つかもしれない。一般に最初は妃子笑茘枝と呼ばれる品種で、少し緑がかっている。

皮を剥いで真珠のような果肉を口に入れると、ジューシーで甘酸っぱい香りが広がっていく。



イチ。皮の赤みが強い桂味茘枝か。



香港の人たちは旬の味覚を楽しみながら、自由な街を謳歌してきた。

ライチがどこの八百屋にも並ぶころ、人々の気持ちが心なしかざわついてきて6月4日の天安門事件犠牲者追悼キャンドル集会を迎える。

日が少しずつ傾いていき、ビルに囲まれた香港島・ビクトリア公園は大陸の同胞への思いを新たにする人たちで埋まっていく。熱気と高揚感に満ちた数時間が過ぎ、やがて帰路につく人の中に夜遅くまで開けている店にライチを探す人たちを見かける。民主的な社会に生きる幸せにこの季節だけの贈り物を重ね合わせたくなるのだろうか。



ビクトリア広場では自由な言論がたたかわされていた。(2017年7月1日)

知り合いに倣って、集会帰りの夜店で買ったことがある。
ライチは中国南部からタイ、ベトナムなどの東南アジアなどに広く栽培されている果物だ。香港と味にそれほどの違いはないはずと思いながら、その夜のライチだけはなにか特別なような気がした。





毎年のライチに変わりはなくても、社会は大きく変化した。
集会は2019年を最後に開かれていない。

主宰してきた民主派団体「香港市民支援愛国民主運動連合会(支連会)」は21年に解散した。

25年6月4日のビクトリア公園は親中派団体による中国物産展が3年連続で大々的に開催され、周辺には多くの警察官が配置されていた。
花を持って公園を訪れた女性2人が連行されるなど、厳しい監視体制は終日続いた。



北京でも天安門広場周辺では行き交う人が身分証の提示を求められ、厳戒態勢が敷かれていた。事件の遺族らでつくる「天安門の母」は事件の検証を政府に求める声明を発表したが、いつまで可能だろうか。




台湾はこの日夜、台北の自由広場前に主催者発表で3千人以上が集まり、「8964(1989年6月4日)」をライトで象るなどして犠牲者を追悼した。

台湾中央社ウェブサイトは主催団体の一つ、華人民主書院協会の頼栄偉理事長の「仮に台湾が中国の一部であるなら、今日なぜここに人々が集まって天安門事件に関心を寄せていられるか」というスピーチを伝える。(2025年6月5日)


香港の国家安全維持法(国安法)が20年6月に施行されて以来、法の独立は有名無実化しつつあったが、25年3月、香港にも法治が残っているのではと思わせる判決があった。

終審法院(最高裁)は6日、警察への資料提出を拒否したとして国安法違反の罪に問われていた支連会幹部ら3人の裁判で「検察側の立証は不十分」として禁錮4月半の有罪判決を破棄する。判決は支連会が外国の代弁者ではないとして資金源などを示す資料の提出を拒んだことで国安法に触れる「外国の代理人」と見做すのは無理があると指摘した。国安法施行後、同法違反に問われた被告が終審法院で勝訴した初めてのケースだった。


香港政府はしかし、5月に国安法に基づいて設置された中国政府の出先機関、駐香港国家安全維持公署(国安公署)が「管轄権」を行使して事件捜査する上での細則を定めた条文作成を終えたと発表する。

国安公署は6月12日から香港警察と協力して国安法違反事件の捜査を開始、6人と1組織に対して20年11月から24年6月までの間に外国勢力と結託して国家の安全に危害を加えた疑いがあるとした。

氏名、組織名称、内容などは明らかにされていない。国安公署による捜査が当たり前になれば、被疑者は常に中国本土に移送可能な状況下に置かれる。香港の裁判所で裁かれないのではという懸念は人々の気持ちを一層不安にさせた。

6月6日には学生時代から民主化運動に携わってきた黄之鋒氏が国安法違反の罪で再び起訴される。20年7月から11月にかけて外国の組織、人物に中国、香港への制裁を求め、法執行などを妨害したとされるが、具体的言動の詳細は不明だ。

黄氏は他の事犯で判決を受け服役中だが、今回の起訴による公判が中国本土で行われることも考えられる。


民主化デモで語りかける黄之鋒氏。(2017年7月1日)




中国政府の締め付けは香港の発展を支えてきた経済人にも及んできた。

3月4日、香港の長江和記実業(CKハチソンホールディングス)はパナマ運河の港湾事業権を米資産運用大手ブラックロックなどの企業連合に228億ドルで売却することで基本合意する。

中国はこの合意に批判を強め、4月2日に予定された正式調印は延期された。
米ブルームバーグウェブサイトは29日「中国の国家市場監督管理総局は李氏の複合企業である長江和記実業が計画する港湾施設売却について、全ての当事者を対象に審査を行うと発表した」と報じた。

中国政府は香港企業が中国・香港以外に所有する資産についてもチェックすると受け止められた。長江和記実業は「ホンコンフラワー」などで財を成した李嘉誠氏が創業、現在は長男の李沢鉅氏が引き継いでいる。
中国側の対応は香港経済界のレジェンドともいうべき李嘉誠氏の海外企業でも自由な裁量を許さないことを示した。


パナマ運河は米国によって1914年に完成、99年に運営権がパナマに委譲された。年間1万隻以上の船舶が利用、世界の海上貿易の約3%を担うとされる。2025年初めトランプ大統領が運河の返還を求めると発言、中国が反発していた.



香港は7月に入ると日差しは肌を突き刺すようになり、ビルなどの片隅に咲くハマユウ(ハマオモト、文殊蘭)の白い花がわずかに道行く人の心を和ませていた。

返還28周年を迎えた25年の1日、李家超行政長官は香港島・湾仔での記念式典に臨み「香港の安全を再建した」「国家の安全を断固守る」と挨拶する。香港の人たちはいま、この日のことを、そして返還のことをどう思っているのか。


返還式典が行われる香港コンベンション&エキジビションセンター。




湾仔の香港回帰祖国紀念碑。1999年7月1日に除幕された。



人々の声を拾い上げてきた世論調査機関の「香港民意研究所」は2月に活動を停止した。研究所は主席が元幹部の国安法違反容疑に絡んで取り調べられ、事務所も家宅捜査を受ける。閉鎖も検討中と聞いた。

中国への返還を無条件で祝う人たちの祭典からしばらくすると、ライチの季節も終わる。



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