アジア新風土記(100)済州島4・3事件





著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。



朝鮮半島から西南100キロにある済州島は古来より耽羅(たんら)国として知られていた。香川県ほどの島は12世紀、島民が「陸地(ユクチ)」と呼ぶ半島の高麗に併合され、さらには中国・元の版図に入り、李氏朝鮮時代はその一地方になった。東シナ海の海上交易の拠点としての歴史は独立性に富んだ気質を育んできた。






作家の司馬遼太郎は済州島の空港上空から眺めた島を

「眼下は一面の畑で、小型の森が無数に点在している。森の黒さが、土の赤さとよく適(あ)っているし、島を構成する地質の一つである玄武岩が海岸線を黒革で縅(おど)したようにふちどっていて、ぜんたいとしては水墨画より油絵にふさわしいような色彩世界だった」

と表現した。(『街道をゆく28・耽羅紀行』朝日文庫、2009年、初版は1986年)


耽羅紀行』は

「ながい朝鮮史のなかの末端である近・現代史も、人間たちの悲鳴やよろこびとともに詰まっている。さらには済州島現代史には、大量の死(八万人以上といわれる)(ママ)をともなった政治事変もふくまれている」

とも書く。1948年の「4・3事件」である。


太平洋戦争終結後の朝鮮は南北に分割統治され、米軍政下の南朝鮮では48年、南朝鮮単独選挙が強行される。

官吏らの不正行為への抗議デモに警察が発砲するなど混乱が続いていた済州島では、南朝鮮労働党が北朝鮮との統一選挙を主張して武装隊を組織、4月3日に350人ほどが旧式銃、斧などを手に警察支署などを襲った。
選挙実施に公然と反旗を翻したのは済州島だけだった。

島民は李氏朝鮮・仁祖の「出陸禁止令(1629年)」から半島への移動を禁止されてきた。朝鮮総督府が1923年に解除するまでの約300年間の長い交流の断絶は島の人たちの生き方、行動に何らかの影響を与えたのだろうか。


軍、警察による追及は襲撃に加わった人以外にも厳しく、死を恐れた人たちは警察に協力するか武装隊のメンバーとして山に入るしかなかった。

48年10月には全島の海岸から5キロ以上離れ、島中央の漢拏(ハルラ)山に通じる山間部を通行する人を暴徒と見做す布告令が出され、さらに戒厳令の宣布で徹底的な焦土化作戦が繰り広げられた。



小説『別れを告げない』は島の女性インソンが母の話として語る。

「母さんが小さいとき、軍と警察が村の人を皆殺しにしたんだけど(中略)あちこちに折り重なって倒れた人たちを確認していくんだけど、どの顔にも昨日降った雪がうっすら積もったまま凍っていて。(中略)その日、はっきりわかったというのね。死んだら人の体は冷たくなるということが。頬に雪が積もり、血の混じった氷が張るということが」

(ハン・ガン、斎藤真理子訳、白水社、2024年)



武装隊は49年6月までにほとんど壊滅状態に追い込まれ、54年9月に漢拏山の禁足地域が開放されて事件は終息した。

朝鮮半島では50年6月に朝鮮戦争が勃発、反共政策は一層強化されていた。
軍事政権時代にも事件は封印され、実態解明の動きは87年からの民主化を待たなければならなかった。


2000年、「済州4・3事件真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法(4・3特別法)」が制定され、3年後に「済州4・3事件真相調査報告書」がまとめられる。

報告書は「人命被害」を25000~30000人と推定する。当時の人口の約9分の1だ。「犠牲者申告書」が出された14028人中、軍、警察などによる「加害」は78・1%、武装隊は12・6%だった。(『済州4・3事件真相調査報告書〈日本語版〉』済州4・3平和財団、2014年)

報告書は結論として「多角的な努力にもかかわらず、4・3事件の全体の姿を明らかにしたとは言えない」と述べる。

全体像把握の根底となる事件の本質とはなにか。
社会的な混乱に憤った人々の暴動なのか、朝鮮統一を念頭にした韓国という国の主体性を揺るがしかねない蜂起とみるのか。
捉え方によって犠牲者像もまた変わってくる。




4・3特別法は犠牲者の範囲を規定しておらず、裁量を「済州4・3事件真相究明及び犠牲者名誉回復委員会」に委ねる。
委員会が認定の根拠としたのは2001年の憲法裁判所の見解だった。

憲法裁は韓国憲法の基本理念である自由民主的基本秩序と大韓民国のアイデンティティを棄損しないという大前提から、南朝鮮労働党幹部らを犠牲者とみなすことはできないとして、武装隊のメンバーとして死亡したり行方不明になったりした人たちを除外した。

一方で法制処(内閣法制局)は06年、「加害者」の約8割を占めた軍、警察の死者らを犠牲者とする判断を示した(『〈犠牲者〉のポリティクス―済州4・3/沖縄/台湾2・28 歴史清算をめぐる苦悩』高誠晩、京都大学学術出版会、2017年)。

『〈犠牲者〉のポリティクス』はまた、犠牲者としての申告が認められた後に武装隊にいたということで撤回させられた行方不明者遺族の「自分だけ生き残ろうと(「武装隊」の活動に加担:高氏注)したのではないのに、すべて国のためにしたはずなのに(・・・)あまり(ママ)悔しくて、言葉では言い尽くせません」という言葉を伝える。事件の根の深さと、どう受け止めるかの難しさをみる。




済州島からは多くの人たちが日本へ逃れ、大阪などに生活の場を求めた人は少なくなかった。

2025年4月20日、大阪市天王寺区の和気山統国寺で開かれた「在日本済州四・三77周年犠牲者慰霊祭」には遺族ら約300人が参列した。

境内に立つ「済州四・三犠牲者慰霊碑」を前に、僧侶の読経に続いて在日本済州四・三犠牲者遺族会の呉光現会長が「済州四・三で無念にも亡くなった3万人にも及ぶ人々、その狂風から日本に逃れて語ることもできずにこの世を去った同胞たちに追悼の言葉を送りたいと思います」と挨拶。

「プンムルノリ(民族楽器を演奏しながら踊る伝統芸能)」の追悼演奏、献花で式は終わる。慰霊碑に刻まれた「犠牲者」について呉会長は「武装隊を含むすべての人たちです。韓国の法に縛られることはなく、今日も武装隊指導者だった父を弔う遺族が参列しています」と話した。


統国寺。納骨堂には朝鮮人殉難者の無縁仏が安置されている。



済州四・三犠牲者慰霊碑。2018年に建立された。




慰霊碑の下には事件当時の済州島178村の石が集められている。




慰霊祭。献花が続く



在日コリアングループによるプンムルノリ。





農村に伝わる伝統芸能で「農楽」とも呼ばれる。

4・3特別法の改定論議は現在も続いている。犠牲者の範囲、在日の犠牲者遺族の処遇など、問題はなお多く残る。慰霊祭に配布された資料には、犠牲者認定された人は25年4月8日時点で14935人とあった。
報告書の「人命被害」との隔たりは大きい。


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