アジア新風土記(65)ポルトガルの残映




著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。









夕闇の迫るマカオの石畳を歩くと、いまアジアの一角にいることを忘れてしまいそうな瞬間がある。

旧市街の通りの壁に、交差点の店先に、青一色のポルトガルの装飾タイル、アズレージョを眺めていると、その思いは一層濃くなっていく。

中国大陸の南にありながら、アジアが次第に遠のいていく。


裏通りがいい。

賑わいのある目抜き通りよりも人の気配が微かに感じられるような路地がいい。

南欧風の趣のある通り、黄色、クリーム色に彩られた教会に包まれ、華人たちの中に時折、ヨーロッパの血が入っているのではと思う人と出会う。
小さな食品、雑貨を売る店でパンを買うと、塩気の少しきいた味がした。

アズレージョの店構えでそれとわかるポルトガル料理店のメニューにはアフリカ、南アジアのスパイスを使ったアフリカンチキンがあった。

石畳の一つ一つから伝わってくる感触を楽しみながら、ポルトガルがマカオに遺した風景を思った。



旧市街、湧き水の出るリラウ広場近くの裏通り



モンテの砦から東に下りた聖禄杞街

マカオは大航海時代のポルトガルにとって交易と宣教の中心地だった。

香料諸島でのオランダとの覇権争いに敗れ、香料独占の時代は短かったが、アジアから撤退したわけではなかった。

香料諸島・アンボンを占拠したのと同じ1513年、探検家ジョルジ・アルヴァレスが広州を目指して珠江を遡り、一つの島に上陸する。

「タマン」と呼んだ島は、珠江デルタのほぼ中央に位置する伶仃島が有力とされているが、香港のランタオ島北岸を主張する説もあり、定かではない。

ポルトガル人は新しい島などに上陸したときは「パドラオ」という石柱を建てて領有権を主張する。珠江周辺にそのような碑は確認されていない。


中国・明朝は民間人の海上交易を禁止する海禁政策を続け、アルヴァレスは密貿易に見るべき成果のないままタマンで客死する。

ポルトガル人たちは彼の死後も次々と中国南部の上川島、浪白澳島に上陸、マカオ半島にも拠点を構える。
上川島はマカオから西南の海上に位置し、浪白澳島は珠江流域でいまは存在しないともいわれる。


明朝は16世紀初め、海賊退治の功を認めて関税納入を条件に交易を許可、1557年にはマカオ居住も認める。

ポルトガルの中国産生糸を日本に売り、日本からは銀を買い求める中継ぎ貿易が本格化していく。
莫大な富は本国に送られ、宣教師たちは頻繁に日本などを往来、各国事情をローマ教皇庁などに送った。

アルヴァレスは1954年、マカオの街に「復活」する。

中国に到達した初めてのヨーロッパ人として、旧市街の南湾大馬路と蘇亞利斯博士大馬路の交差点に石造りの立像が建てられる。どのような経緯で建てられたのかはわからない。

交差点を挟んだ先の通りは『日本史』を著したルイス・フロイスの名前がついた「傳禮士神父街」だ。

道路標識に沿って狭い通りを歩き、メインストリートの新馬路に立つ民生総署にぶつかる。

中央入口階段を両脇のアズレージョに誘われるように上った中庭には、詩人ルイス・デ・カモンイスの胸像があった。


ジョルジ・アルヴァレス像。後ろの石柱は「パドラオ」を模したものか



ルイス・デ・カモンイス像。胸像は他に天主堂跡西北の「ルイス・デ・カモンイス公園」にもある


大航海時代を描いた彼の叙事詩『ウズ・ルジアダス』はマカオの地で執筆が始まったとされる。

1553年、インド・ゴアに軍人として赴き、さらにマカオに士官として勤務する。
マカオに着任したころは、ポルトガルが中国から居住権を獲得した前後だ。

部隊の駐屯地はどこだったのか、どのような宿舎で叙事詩の筆を執り始めたのか。
半島先端部にゴアから派遣された傭兵ムーア人の兵舎だった港務局大楼がある。

尖塔とバルコニーを持ったデザインは19世紀のイタリア人建築家によるものだが、界隈に昔から軍関係の施設が建てられていたのかどうか。

『ウズ・ルジアダス』にある「ここに地終わり海始まる」という言葉は、ヨーロッパ大陸最西端のロカ岬に立つ碑文に刻まれている。

新大陸、そしてアジアへの野望を胸に船出していった男たちの思いを伝える言葉はどこで生まれたのか。

ポルトガルからは遥か遠くの「地の果て」とでもいうべきマカオで着想を得たのか。
いつかロカ岬に立ってみたいと思う。どのような海が広がっているのだろうか。



「海始まる」の先駆となったバスコ・ダ・ガマは、マカオで最も高い東望洋山(海抜97m)の下にあるバスコ・ダ・ガマ公園に胸像を残す。

東望洋街に沿った瀟洒な公園は1898年、インド航路発見から400年を記念してつくられた。胸像は13年後の制作という。

ポルトガルがアジアで最も華やかだった時代を象徴する「英雄」は、マカオの地にも欠かせないものだったのか。


バスコ・ダ・ガマ像。四方をビルに囲まれ、子どもたちの遊び場になっていた


バスコ・ダ・ガマ公園の西にあるモンテの砦は22門の大砲が並んでいた。
イエズス会の修道士が築いた。

1622年、この砦と大砲が3日間続いたオランダの猛攻を退ける。
攻略に失敗したオランダは、台湾・澎湖諸島への転進を余儀なくされた。

砦の上から珠江デルタの海を臨み、舳先を砦に向けて威嚇するカラック船(地中海で開発された帆船)の艦隊を想像する。

海は珠江から流出する土砂で黄褐色の遠浅になっていた。カラック船が疾走していたころはもっと深かったかもしれない。




聖ポール天主堂跡は砦の目の前だった。

1835年の火災で焼失を免れたファサード(正面外壁)と階段部の壁の一部だけが残る。
ファサード2層目に立つ4人の聖者たちにフランシスコ・ザビエルがいた。

ザビエルはマカオの地を踏んでいない。
香料諸島、日本での活動後、ゴアから中国布教に赴いた矢先、上川島で病に倒れる。

マカオにはまだポルトガル人居住地はなく、天主堂跡の地に最初に礼拝所が建てられたのもザビエルの死から30年後だった。



マカオはそれでも上川島よりもはるかに広州に近く、情報も集まっていたのではないか。

長期滞在は無理だったとしてもなぜ、もっと早い時期にマカオから中国への入境を試みなかったのか。彼の死後、右腕上膊部は焼失前の天主堂に安置されていた。

いまは民政総署から南にほどなく行った所にある聖ヨセフ修道院・聖堂に眠っている。





聖ポール天主堂跡はファザードに向かって広い石段を登る。
幅は30メートルほど、階段は100段はあるだろうか。
一段一段と上がっていくと、石造りの巨大な外壁が迫ってくる。
見上げる度に空が覆われていった。壮大だった。
宣教の日々の栄光への矜持を示しているとも、栄光の残滓に過ぎないともいえた。


聖ポール天主堂跡。創建には日本人信徒も加わっていた

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