アジア新風土記(58)王朝化するカンボジア



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。





長い内戦を終えたカンボジアが1998年12月に国連の議席を回復した直後、プノンペンの市場を歩いた。中心部にある「ニューマーケット」には竹籠に収穫したばかりの野菜が積み上げられ、炭火で焼いたフランスパンの香ばしいにおいが立ち込めていた。喧騒は一層心地よく響き、売り手も買い手も生き生きとしていた。人の集まる場所がテロの標的になることを怖れていた人たちの目は和やかだった。市場の朝はこの国の立ち直りを素直に納得させてくれた。

国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)主導によって民主社会への道を歩み始めたかに見えたカンボジアは、半年前の98年7月の総選挙でフン・セン首相(70)の人民党(CPP)が第一党を占めたばかりだった。このとき、権力を掌握した首相がその後25年に及ぶ長期政権を築き上げることまでは想像できなかった。


2023年7月23日、カンボジア総選挙(下院・定数125)が行われ、与党・人民党が圧勝した。選挙管理委員会による正式な発表は8月上旬になるが、同選管の暫定結果では82.3%の票を獲得、人民党も独自集計で120議席確保の見通しを表明した。人民党は18年の前回総選挙では全議席を独占しており、2回の総選挙で独裁体制をさらに強固なものとした。

フン・セン体制は野党勢力と政権に批判的なメディアを排除することで、独裁化の色合いを加速していった。最初の「成功例」は、17年6月3日の最大野党・救国党ケム・ソカ党首に対する国家反逆罪による逮捕だったのではないか。

救国党は12年、当時の野党第一党サム・ランシー党とケム・ソカ氏率いる人権党が合流して発足した。翌13年の総選挙では人民党の腐敗、格差の広がりに不満を持つ若者らの支持を集め、投票総数の約45%にあたる約300万票を獲得、選挙前の29議席から55議席へと躍進した。
17年6月に行われた地方選挙でも投票日前日の党首逮捕にもかかわらず4割を超す得票率を得るなど、実力・人気は確実に社会に浸透していった。この事実が首相に体制維持への危機感を募らせることになる。5か月後には最高裁判所が解党と指導者100人以上に5年間の政治活動禁止を命令した。

17年9月4日、政権批判のスタンスを崩さなかった英字紙「カンボジア・デイリー」が発行を停止する。税務当局は同紙に過去10年にわたって脱税を続けていたとして630万ドルの支払いを命じていた。同紙は全く根拠のないものであるとして支払いを拒否、不服申し立ての機会のないまま、「猶予期間30日」後の発行停止に追い込まれた。
放送許可取り消し、番組の放送禁止などの処分を受けたメディアは30社以上といわれ、人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチは外務省とのODA政策協議会で、独立系地方ラジオ局の閉鎖、ボイス・オブ・アメリカ(VOA)のクメール語番組の再放送禁止、さらにはケム・ソカ氏が2002年に開設したカンボジア人権センターも閉鎖されたなどと指摘する。

カンボジアの民主化が着実に進んでいた時期だった。この流れが続いていれば、自由な社会が紆余曲折はあったとしても根付いていったのではないか。実現しなかったのは強権政治の前に対抗勢力の力が及ばなかったのか。あるいは民主的な社会を求める人たちのエネルギーが弱かったのか。戦乱のない社会の下で経済成長が順調に進み、多くの人々が豊かになった暮らしにそれなりに満足したからか。

平和に飢えていた国民の混乱へのトラウマがあったのかもしれない。そのころはまだポル・ポト政権時代から40年ほどしか経っていなかった。人口800万人に満たない小国の100万から170万人以上が虐殺されたともいわれる過去はなお、人々の心に癒すことのできない傷を残していたのかもしれない。

18年7月の総選挙は主要野党のいない選挙となり、人民党は全議席を独占する。13年の総選挙で救国党に投じた約300万票は投票先を失った。逮捕を恐れて海外に逃れた救国党元幹部らは投票ボイコット、抗議の意思を込めた白票などで対応すべきだと訴え、無効票、白票が全投8.6%にのぼった。
米国、欧州連合(EU)は支援凍結したが、日本政府は選挙協力の姿勢を崩さなかった。首相が国際社会からの批判を回避したと考える根拠の一つになったかどうか。

フン・セン首相は23年総選挙でも最有力野党を排斥するという強引な手段をとった。5月15日、カンボジア選管は救国党の流れをくむキャンドルライト党(CR)に対して、政党と候補者登録の手続書類不備を理由に選挙参加を認めない決定をする。同党は前年の地方選挙で候補者資格剥奪、支持者逮捕などの圧力を受けながらも約2割の得票を獲得していた。政権は救国党と同じように同党の勢いを事前に削いだ。
6月には選挙法が改正され、白票、無効票への投票呼びかけ行為が禁止される。これも前回の轍を踏まない措置と受け止められ、同党幹部4人が無効票を呼びかけたとして逮捕されるなど有形無形の圧力が投票日まで続いた。

自由な報道への封じ込めも変わらなかった。独立系メディアの「ボイス・オブ・デモクラシー(VOD)」は2月13日、事業資格の停止処分を受ける。VODはその4日前、フン・セン首相の長男フン・マネット陸軍司令官(45)がトルコへの震災支援金10万ドルの拠出を父に代わって承認したとする記事を配信していた。承認権限は首相に限られ、司令官の行為は違法の可能性があった。司令官は事実関係を否定したが、同社は確かな情報と裏どり調査に基づくと主張する。資格剥奪の明確な理由は不明のままだ。

フン・マネット司令官は今回の総選挙で比例代表候補として立候補、当選は確実視されている。フン・セン氏は7月26日、国営テレビなどで首相退任と司令官を後継とする方針を発表、新政権は8月中にも発足するとみられる。人民党首としては留まり、24年2月の上院選挙に出馬、上院議長に就任する意向も明らかにした。司令官の政治手腕は未知数なだけに、実質的トップとして立場は変わらないだろう。王朝化するフン・セン一族の時代はいつまで続くのだろうか。


 

SHARE シェアする

このエントリーをはてなブックマークに追加
  • 高文研ツイッター

  • 日本ミツバチ巣箱

  • 紀伊國屋書店BookWebPro

  • 梅田正己のコラム【パンセ】《「建国の日」を考える》

  • アジアの本の会

  • 平和の棚の会

  • おきなわ百話

  • 津田邦宏のアジア新風土記