アジア新風土記(39) 台湾・霧社事件



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。



台湾を南北に貫く中央山脈のほぼ真ん中に山懐深く、霧社(むしゃ)がある。
新幹線の台中駅からバスを乗り継いで2時間ほどかかるこの山里にこれまでに
三度行った。



埔里で乗り換え川沿いの細い山道をバスが小一時間も登ると、一本道の両側に
商店、ホテル、教会などが並ぶ霧社の町に着く。三千メートルを超す山々に囲
まれ、東に台湾最長の濁水渓、西には眉渓が流れていた。通りから少し高台に
上っていくと家々の屋根越しに濁水渓が望めた。






1930(昭和5)年10月27日、この霧社で先住民セデック族356人による
大規模な武装蜂起が起きた。
彼らは周辺の警察官駐在所を襲って武器、弾薬を奪い、通信線を切断した後、
地域運動会が開かれていた霧社公学校に乱入、日本人134人、漢人2人を
殺害する。
セデック族11社(村)のうち6社が決起した。軍、警察を動員した掃討作戦は
2か月続き、セデック族は「戦死」、縊死などで644人が死んだ。
女性の死者は男性より20人少ないだけの312人だった。
半年後、投降した人たちの収容所を軍に協力した人たちが襲う第二の霧社事件
が起き、殺害を免れた人たちは埔里近郊に移住させられた。


集落の手前にあった公学校は、いまは台湾電力の事務所になっていた。
入口に事件の概要を伝える案内板があった。
近くには「霧社山胞抗日起義紀念碑」が立っていた。


修羅場となった霧社公学校の校庭(事件概要を伝える案内板から)


事件後の公学校入口(事件概要を伝える案内板から)


事件はセデック族の婚礼の式への参加を求められた日本人巡査が断ったことが
発端だといわれている。森林伐採、運搬などの過酷な労役に加え、賃金不払い
などの不満が高まっていた。
そして抜群の指導力を持った頭目のモナ・ルドの決断があった。

霧社は台湾総督府が先住民を懐柔するための理蕃政策が効果を挙げていた
模範的な地域だった。
日本語を教わり、日本式の礼儀作法を見習い、日本人になることを強いられた
人たちは、日本人への「同化」に忠実だっただけに、反動も大きかったのか。
セデックの人たちは「GAYA(山の人たちの決まり)」が犯されたと考えた。
「尊厳」「道義」と置き換えてもいい「GAYA」と「同化」との均衡が崩れた
瞬間はいつだったのか。



「霧社山胞抗日起義紀念碑」前での慰霊祭





慰霊祭に参加した先住民の子どもたちと抗日群像碑

霧社に行くたびにある種の覚悟を実感する自分がいた。
そのことをどう考えたらいいのだろうかと反芻する旅だった。



日本の台湾統治に対する反乱は霧社に限らない。マンゴーの産地、
玉井では1915(大正4)年、漢人による最後の大規模抗日運動
「余清芳事件(西来庵事件)」があった。
余清芳紀念碑の前に立ったときの気持ちは日本の植民地支配という
「過去の現場」に臨むという感慨が強かった。
しかし、霧社にはそれだけでは収まり切らないような、なんとも曖昧な
感情があった。否が応でも「日本人」を意識せざるを得ない感覚だろうか。



台湾総督府は山一つ谷一つ隔てれば言葉も生活習慣も異なるいくつもの
先住民を「高砂族」という一つの言葉で括った。
同じ台湾に暮らしていた漢人には、名前を日本名に改めるよう強要したものの、
精神の根っこの部分までは日本人になることを求めただろうか。

先住民の地に赴任した日本人警察官は地域の状況把握と取締りのため、
現地女性との結婚が奨励された。多くは日本での妻帯後の単身赴任であり、
赴任期間が終われば先住民の「妻」を残して帰ることは当たり前だった。
モナ・ルドの妹も日本人警察官と結婚、その後棄てられた。
漢人にもこのような対応があったという話は聞かない。



セデック族出身の花岡一郎という巡査がいた。日本人の子どもらと一緒に学び、
台中師範卒業後、巡査として霧社に赴いていた。
花岡二郎という義兄弟も巡査に次ぐ職位の「警手」になっていた。
二人とも同じ学校に通った頭目の娘らと結婚したが、「日本人警察官」として
生きた。モナ・ルドらの蜂起を事前に知っていたかはわからない。
事件直後、二人は霧社の宿舎で家族らと自殺した。


『図説 台湾の歴史』(周婉窈著、濱島敦俊監訳、平凡社、2007年)によれば、
一郎は鉛筆で

「花岡、責任上考フレバ考フル程コンナ事ヲセネバナラナイ全部此処ニ居ルノハ家族デス」と書き残し、壁には二郎の手になると伝えられる

「花岡両 押捺 我等ハ此の世を 去らねばならぬ 蕃人のこうふんは 出役の多い為にこんな事件に なりました 我等も蕃人たちに捕らはれ どふすることも出来ません 昭和五年拾月弐拾七日午前九時 蕃人は各方面に守つていますから 郡守以下職員全部公学校方面に死セリ」(原文ママ)
という遺書が貼られてあった。


台湾大学歴史学系教授の周婉窈氏は同書に
「彼らは自分たちの民族集団(族群)に忠ならざるを得ないのであり、さりとて日本人へも何らかの想いを表白せざるを得なかったのである」と書いた。




霧社の町から眺めた濁水渓はさらに南に下って台湾海峡に注いでいる。
事件と同じ年の4月、濁水渓の南を流れる曽文渓を灌漑用水として活用させる
烏山頭水庫(ダム)が完成する。
台南地区に広がる嘉南平野15万ヘクタールの原野を穀倉地帯へと変えたダムは、
濁水渓からも水を引いて貯水量1億5千万トン、灌漑水路約1万6千キロの
難工事だった。1920(大正9)年の本工事着工から関わり、自ら指揮を執った
技師が八田與一だった。


完成時は世界最大だった烏山頭水庫



1930(昭和5)年は日清戦争後の1895(明治28)年に下関条約で台湾を
植民地としてから35年が経っていた。
紆余曲折の植民地経営だったが、一大事業の烏山頭水庫も実現させる。
そのわずか半年後の霧社事件は台湾を掌中に収めたと考えていた台湾総督府を
震撼させた。
この「昭和5年」は日本の台湾統治を象徴するような年だったのではないか。


八田與一が陸軍技術者としてフィリピンに向かう途中、米潜水艦の攻撃によって
戦死した5月8日は毎年、慰霊祭が台湾の人たちによって烏山頭水庫の湖畔で
行われる。日本人関係者らも多く参列する。
ダムが植民地時代の「光」として喧伝される一方で、霧社事件について報じられ
ることは少ない。
霧社でも10月27日に慰霊祭が行われているが、あくまで先住民の慰霊祭で
しかない。そこに「日本」「日本人」の存在は希薄だ。


烏山頭水庫湖畔の八田與一座像。後方は八田と夫の死後入水自殺した妻外代樹(とよき)の墓



明治から昭和にかけて日本が作り上げた「植民地・台湾」を思い起こすとき、「何をしたのか」についての明と暗の対比は、一年一年と過ぎていくなかで、
限りなく「明るい実績」に傾いていく。
植民地とした事実、歴史さえも忘れ去られていくという思いは強い。

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