アジア新風土記(30)沖縄・イジュの花



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。



1972年5月15日の那覇は前日からの激しい雨が未明になって止んだ。
沖縄が日本に復帰したその日午前零時過ぎ、沖縄統治の最高責任者
ランパート高等弁務官・陸軍中将が嘉手納基地から東京に飛び立った。
琉球政府主席の屋良朝苗が見送る。

屋良は新生沖縄県知事として午後の記者会見に臨み、
「日本の主権が回復され、沖縄が日本国憲法のもとにおかれた以上、
沖縄のかかえている問題点は、これまでよりつかみやすく、
解決の方向づけももっと容易になる」と語った。

沖縄の問題は把握しやすく解決の道筋も容易になったのだろうか。
2022年5月15日、岸田文雄首相は那覇で「復帰から50年が経つ今もなお、
沖縄の皆様には大きな基地負担を担っていただいている」と述べた。
50年前も現在も状況が大きく変わることはなかった。


日本復帰のとき沖縄はベトナム戦争が重く影を落としていた。
嘉手納基地はB52戦略爆撃機がベトナムに出撃し、
支援のKC135空中給油機が離発着していた。基地が残ったままの
復帰への抗議集会には東部・勝連半島の米海軍ホワイトビーチから
ベトナムに向かう艦船を阻止しようとする反戦GIが飛び入り参加して
「タックルセー(やっつけろ)米軍、チバレ(がんばれ)沖縄」と叫んでいた。


ベトナム戦争は終わったが、嘉手納基地、ホワイトビーチはいまも沖縄にある。
普天間基地の辺野古移転問題は反対運動が続く。
2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻を機に「台湾有事」での沖縄の
「基地」としての役割もまた論議されようとしている。

沖縄の米軍基地は1972年当時、日本全体の59パーセントだったが、
現在は70パーセント台までになった。
本土での反基地運動などによって米軍部隊が沖縄に移動した結果だ。

米軍施設が本土の面積に占める割合は0.02パーセント、
沖縄は約400倍の8.1パーセントだ。沖縄本島に限れば約15パーセントになる。

屋良知事は復帰記念式典で
「沖縄に内包する問題はなお複雑なものがあります。
幸い、私ども沖縄県民は名実とも日本国民としての地位を回復いたしました」
と表明した。
東京では佐藤栄作首相の音頭で「日本国万歳」「天皇陛下万歳」が
会場にこだました。
沖縄の人たちは屋良の言葉に納得し、日本国民に戻ったことを
幸いなことと思っていたのだろうか。


日本の敗戦後、台湾に暮らしていた沖縄の人たちは日本政府から
沖縄県人ではなく「琉球人」として扱われた。
『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(高文研、2019年)
としてまとめたとき、沖縄には「独立」「中国帰属」といった
意見があったことを学んだ。
沖縄民政府の志喜屋孝信知事は沖縄の将来について
「少数は日本に帰属したい希望を持っているものもある様ですが、
大部分は米国の保護の下に平和な国を築いてゆきたいと思っています」
と述べていた。(「うるま新報」1947年8月1日)



米軍統治下の社会の空気がそう言わせたのかもしれない。
しかし、沖縄の人たちの率直な気持ちの表れだったのではないかとも考える。
日本復帰運動の高まりのなかで「異論」として消えてしまったかのような
主張はいま、再び芽生えているのだろうか。

屋良は式典で「沖縄がその歴史上、常に手段として利用されてきた」
とも言った。

沖縄が「常に手段として利用されてきた歴史」を明治政府が琉球王国を
併合した「琉球処分」にみる。
明治政府は1872(明治5)年に琉球藩を設置、1879(明治12)年には
琉球藩を解体して沖縄県設置に踏み切る。
翌80年には中国国内での欧米と同じような通商権獲得のために、
清朝に石垣島、宮古島など先島諸島の割譲も提案した。
戦後は米国によって東アジアの軍事上の要石とされ、
沖縄は再び「琉球」になった。
日本は沖縄県人を琉球人とすることで米国の外交・安全保障政策を追認した。


2019年8月、首里城を久しぶりに訪れた。焼失の約3か月前だった。
焼け落ちることなど想像もできず、外観だけで正殿には入らないまま
城郭の西のはずれまで行った。

沖縄の城は城郭がどこも緩やかなカーブを描いて鋭角的なところが
見当たらないような気がする。その曲がり具合を眺めていると、
心がゆったりとして穏やかな気持ちになっていく。
不思議な感覚と戯れながら縁台のようなベンチに寝転がった。
夏の盛りなのに風は爽やかだった。

守礼門まで戻り、金城町石畳道を下りた。
琉球石灰岩の石畳は15、6世紀の尚真王の時代、南部へ向かう主要道として
つくられたという。
道幅4メートルの石畳は、沖縄戦によっていまでは300メートルほどしか
残っていなかった。不規則に続く石の一つ一つを踏み固めるように歩いていく。

灰色の表面はつるつるとして、周囲のこれも琉球石灰石で積まれた石垣と
密やかなささやきを交わしているようだった。
途中の展望のきくカフェでコーヒーを注文する。
眼下に那覇の街並みがあった。


140年前、首里から那覇への道も同じような石畳だったのだろうか。
1879年3月に首里王城を明け渡した尚泰王は2か月後、琉球の地を後にする。

「五月二十七日に尚泰は次男宜野湾王子尚寅を伴って、東京へ向かった。
随行が小禄按司など按司部三人を筆頭にして約百人。
中城御殿を出て観音堂、崇元寺廟に詣でながら那覇港にいたるまでの
警護がおよそ千人ほどつめた。
(中略)路傍に士族も百姓も群れて土下座していた」
『琉球処分』大城立裕、講談社文庫、2010年)。

尚泰王はどのような思いで下っていったのか。
足元の石畳が鈍く光ったように思えた。



沖縄の5月はすでに梅雨だった。2022年は4日に梅雨入りしていた。
山々にイジュの白い花が咲き出し、満開のころは山が真っ白に染まるという。

ツバキ科の常緑高木で3~5センチほどの花は枝の先に集まる。
奄美諸島から沖縄にかけての山間部でよく見かける。




「やんばるの森に咲くイジュ(市田則孝氏撮影)」

イジュの花のことを沖縄本島北部のやんばるの森で知った。
東村高江の米軍北部訓練場N1地区ゲート前にヘリパッド建設反対に
集まった人たちが「うりずんが過ぎれば」「琉歌にも歌われる」
と説明してくれた。

那覇から週2回は来るという女性は『十九の春』の替え歌を教えてくれた。
復帰の記念日に合わせてつくったという。

一節に
「五月十五の 記念日に 泣いているような イジュの花 安倍・菅・中谷(元・2014~16年防衛大臣=筆者注)三閣僚 辺野古唯一は 幻よ」
とあった。

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