アジア新風土記(27)東京・高尾のムシャザクラ



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。


春が近づき風が微かに柔らかく感じられるようになると、
東京の高尾・多摩森林科学園のムシャザクラに会いたくなる。
台湾中部の霧社地方に自生する清楚な白い桜花は地元では
毎年1月ごろが見ごろになる。日本では2か月ほど遅れて咲く。




2022年3月、JR中央線の高尾駅から北に歩いて10分ほどの
森林科学園を訪れた。








江戸時代は幕府直轄地、明治になって御料林として保護されてきた
高尾の森の一角にあり、8ヘクタールのサクラ保存林には伝統的な栽培品種、
学術的に貴重な種類など約250種、1800本のサクラが植えられている。
毎年春先から次々と開花していく。



彼岸が過ぎた平日はコロナ禍の影響もあって人出は少なかった。
花の時期が少しずつ異なる木々は、河津桜はすでに若葉が勢いを増し、
八重の桜たちはまだ蕾が硬かった。
ムシャザクラは保存林の奥まったところに咲いていた。満開だった。
例年より開花が遅かったが、期待を裏切らない美しいサクラだった。


高尾のムシャザクラ。案内板に「発見された産地のひとつ、台湾の霧社にちなむ」とあった


森林科学園のムシャザクラは「結城の霧社桜」と名付けられ、
樹齢30年余の大木だった。樹高は10メートルを超える。
1986年に茨城県結城市の「日本花の会結城農場」が台湾から種子を取り寄せ、
接ぎ木で育てられた苗木が5年後、森林科学園に植えられた。
2011年に実生から育ったムシャザクラも大木の横で花をつけていた。



「ムシャザクラ」の命名は日本の台湾統治時代に遡る。

1936(昭和11)年の『台湾樹木誌(増補改版)』(金平亮三著、台湾総督府中央研究所林業部)

「落葉喬木、樹幹通直、葉は楕円形、長さ3~5㎝、細鋸歯縁、葉柄に柔毛、花は2又3花を葉痕の上部より抽出す、花梗は長さ1.5~2㎝、柔毛、蔓は鐘状、外面有毛、先端5裂、裂片は長楕円形、花□白
色、倒卵形、先端僅に切目を有す、実は卵形。産地 南投霧社方面の森林、他に採集せず。分布 固有」

と詳細に記録する。


明治政府は1895(明治28)年に台湾を植民地とした直後から
地勢調査を開始、大正の初めには金平らが台湾木材の利用を図る
ための樹木標本採集に取り組み、1917(大正6)年に『台湾樹木誌』
初版本を出している。

ムシャザクラはそのときすでに
「本島固有 中部潤葉樹林ノ上部界ニ生ジ南投県下霧社付近ニ多シ」
と載っている。

増補改訂版の総説は

「蕃害(先住民とのトラブル=筆者注)頻々として起り(ママ)森林中の採集は危険なるのみならず、瘴病の気(熱帯病=同)多く採集には多大の困難を供ふた」

と述べる。


先住民を威迫して日本の台湾支配に順応させていく理蕃政策が
効果を挙げていないなかでの研究者らの不安は相当なものだったと想像する。


高尾のムシャザクラの下にいると台湾の霧社を思い出す。
冬が深くなるにつれ、山間から咲き始め、1月になると
鄙びた集落は満開のころを迎えるという。


霧社の地に咲く


ムシャザクラを見に行った時は2月の中頃だった。
盛りは過ぎていたが、所々に遅咲きの老木を見つける。
霧社の地に咲く花に思わず、衿を正した。

理蕃政策に苦しめられた先住民のセデック族が武装蜂起した
霧社事件の「現場」だという気持ちが「花見」をなにか別なものに変えた。
1930(昭和5)年に起きた事件は2か月後に鎮圧されたが、
セデック族644人が殺害されるか縊死し、日本人134人も犠牲になった。


霧社は台湾を南北に走る中央山脈の3千メートル級の山々に囲まれている。
海抜1148メートルの尾根沿いにあり、濁水渓と眉渓の二つの川に挟まれる。
町は一本のバス道を挟んで両側に街並みが続いていた。


早朝の霧社の町


早朝、静まり返った通りを歩くと朝の早い中学生らが利用する食堂だけが
店を開けていた。
店内に霧社事件を扱った台湾映画「セデック・バレ」のポスターが貼ってあった。どれだけの人が映画を見たのだろうかと思った。





『台湾樹木誌』は台湾のサクラとして他にヒザクラ、
アリサンヤマザクラなど7種を挙げる。
種類、場所によって開花時期はそれぞれ異なる。
台北郊外の陽明山は2月中旬から「花季」を迎える。
ヒザクラ、日本からのヨシノザクラなどが山腹から山裾、
市内へと下りていき、人々はテレビの天気予報などが伝える
開花情報に関心を寄せる。



3月も中頃を過ぎると日差しが日に日に強くなっていき、
台北の街をサクラに代わってコットンツリー(木棉樹)が彩るようになる。

台北駅から東に伸びる忠孝東路は樹高が15メートル以上にもなる
コットンツリーの街路樹が整然と連なり、太い幹から間隔を置いて
横に伸びる枝という枝に赤や朱、橙色と少しずつ色合いに変化を
つけた花がつき、直径15センチほどの大輪が群踊の華やぎを辺りに
発散させていた。
ねっとりとした花は見上げているだけで、サクラに心を委ねる
日本的な情緒というものを次第に失わせていくようだった。 


台北・忠孝東路のコットンツリー



香港でもコットンツリードライブ(紅棉路)、コットンパス(棉花路)
などの通り名になるほどポピュラーだ。
大気が春に向かって湿潤さを増していくころに咲き始める。

ビクトリア港に面した香港島・金鐘地区からビクトリアピークに上っていく
コットンツリードライブは、港近くに大木があった。
初めて見たときは冷たさの残る海風にも負けない強い色彩に圧倒されたが、
年を重ねるごとにその色合いにも親しみさえ感じるようになっていった。

マカオはポルトガル植民地時代の路地がいまも残る。
南欧を連想させる通りにコットンツリーの個性は似合わないと思っていた。
坂の多い旧市街を行き来しながら、尾根筋へと抜けると一気に視界が開け、
見下ろす小さな谷間の一隅に見つけたときは意外な気持ちになった。
台北とも香港とも違って、けだるげな風情に妖気を孕んで鮮やかだった。


インドを原産として東南アジアなどに自生するコットンツリーは
人の手によって分布は広がり、ベトナム北部の南越王が紀元前、
中国・漢王朝に献上したという話も伝わる。
しかし東南アジアでは機会がなかった。
日本でも馴染みの薄い木だ。

コットンツリーの花は咲き誇ってツバキのようにぽとりと落ちていく。
散ってもまだ水分を十分に含み、道行く人を滑らせた。
実は割れると白い綿毛が空中に弾き出る。
中国の北部では春になると楊樹から飛び出した柳絮が舞う。
北京空港から市内に向かうときに見たことがあるが、
コットンツリーの方が躍動感があるような気がした。


 

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