アジア新風土記(26) 香港・ハッピーバレー



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。






旧暦3月の春分から15日目はアジアの中華圏では清明節のときである。2022年は4月5日がこの節日にあたる。香港でも台湾でも、東南アジアでも華人は揃って先祖の墓参りに出かける。
沖縄では「シーミー」と呼ばれ、親族一同が墓前に集い、お供え物をいただく。

中華系の人たちの先祖を敬う気持ちには強いものがある。
香港返還前後、カナダ、オーストラリアへの移住を決めた人たちが一番に心配したことは先祖の墓をどうするかだった。親族が残る人たちは管理を託すことはできても、一族郎党で移る人たちの思いには深いものがあった。

中国国民党時代に活躍した親族を持つ友人の一人は、返還後に墓が荒らされるのではと心配したほどだった。二度と帰ってこないという決意の、あるいは帰ってこれないという思いの奥底にある消し難い感情だった。

海外移住は一時減ったものの、香港国家安全維持法施行(2020年6月)などによって自由がなくなった社会から英国などへ逃れる人たちは増えている。その人たちの思いもまた同じなのだろうと想像する。

中華社会で暮らしていて、清明節に各地の墓地が線香の臭いで包まれる風景を目の当たりにすると、異国で客死した邦人に思いがいくときが度々だった。






註:上記mapは「香港墓地」となっていますが「香港墳場」です

香港島中央の山間に広がるハッピーバレーの「香港墳場」は、ビクトリア港に面した湾仔地区から南側のアバディーン地区に抜ける道がトンネルに入る直前の右手にある。英国が植民地として間もない1845年につくられた外国人墓地だ。英国人、インド人らの7千を超す墓が続き、崖下の奥まったところに日本人の墓が並んでいた。1878(明治11)年から1945(昭和20)年までの465人が埋葬されている(香港日本文化協会創立25周年記念誌・赤岩昭滋、1988年)。1912(大正元)年に日本人のための火葬場がつくられてから遺骨を持ち帰れるようになり、埋葬者は減っていった。


日本人の墓は明治時代に亡くなった人が約8割という

香港墳場を初めて訪れたときはまだ、多くの日本人が眠っているということは知らなかった。国籍、宗教の異なる人たちの大小様々な墓の中を歩き、小さな坂道の行き止まりのような一角に日本語の墓石を見つけたとき、一瞬足が止まった。立派な墓石と墓碑の一つ一つを追い、崖からの土砂や落葉が積もって石塊にしか見えなくなったひとつの墓に出会った。哀しく切なかった。

カタカナ書き二文字の女性名を連ねた墓があった。この地で命を落とした「からゆきさん」たちに思えたが、一つの墓に一緒にという疑問はそのまま残った。2021年12月に香港日本人倶楽部が発行した『香港セメタリーに眠る日本人の物語 明治開国から大正期にかけて(1878~1918)』にその答えを見つける。

香港島の中心部・中環(セントラル)の娼館で働いていた長崎県出身のサキ(木谷左喜)という女性が父親の死を知ってビクトリア港に身投げする。仲間62人が墓の費用を工面する。「墓碑には『友人たちが建てた』と英語で記し、その台座には、キク、コト、エイ、マツ、サツ・・・、カタカナ2文字ずつ62人の名前が寄書きのように刻まれている」。

からゆきさんには香港からさらに東南アジアに向かった人たちもいた。港々の娼館を働き場として、その地で亡くなった人がどれだけいたのか。キクやコトはどうなったのか。香港が終の棲家になったのか、もっと南まで行ったのか。エイ、マツは・・・。

「この墓地には、墓碑のない日本人の墓が203柱ある。墓地番号を記した小さな瓦礫が、そのまま墓標になっている」ともあった。からゆきさんの墓も多かったのか。

昭和の初めに香港総領事館に勤務した奥田乙次郎は『明治初年に於ける香港日本人』(台湾総督府熱帯産業調査会・熱帯産業調査会叢書第5号、1937年)に「我が対外発展の先駆者は常に娘子軍(からゆきさん)であるという定石が、この香港においてもあてはまる」と記している。

日本人の墓の数々は約150年の日本と香港との交流の証をいまに伝える。
『香港セメタリーに眠る日本人の物語』には、サキのほかに留学先のフランスで病を患って帰国する途中に倒れた陸軍士官湯川温作、三菱香港支店初代支配人本田政次郎、外国為替を扱う横濱正金銀行香港出張所駐在員廣田耕吉、清国に孫文との関係を疑われた神戸辰馬商会汽船「第二辰丸」船長照峰廣吉ら7人の生涯を紹介する。戦後は長く放置されたままだったが、1982(昭和57)年に日本人火葬場にあった慰霊碑「萬霊塔」の香港墳場移転を契機に整備が始まり、慰霊祭も執り行われるようになった。



萬霊塔。1918(大正7)年のハッピーバレー競馬場の火事で命を落とした日本人22人の一周忌法要にあわせて建てられた。

香港墳場から道路一つ挟んだところには競馬場がある。
英国は植民地経営に乗り出した19世紀中頃、駐在英国人、兵士らの娯楽場として一本の馬場をつくった。馬場は次第に本格的な競馬場としての装いを整えていき、「跑馬地」という漢字名も生まれた。

ハッピーバレーと競馬場は返還前後の時代を象徴する出来事の舞台にもなった。

香港墳場脇のホテルは返還前は中国の大使館的な役割を果たしていた新華社香港支社のビルだった。1989年6月4日の天安門事件以後、犠牲者らを追悼するデモ隊は決まって支社前まで行進した。直前の5月27日、競馬場では天安門広場に座り込む学生らの支援コンサートが開かれた。会場に普段着姿のテレサ・テンが駆けつけ、抗日戦争時代に歌われた「私の家は山の向こう」を歌う。「民主萬歳」の鉢巻きを締めて初めてこの歌を歌った。

2007年7月1日の返還記念日には競馬場に集まった市民らの目の前に人民解放軍の落下傘部隊が下りてきた。人々は歓声を挙げて迎える。10年前の1日未明、広東省深圳から戦車で香港に入ってきた解放軍兵士をテレビで見て震えた人たちのことなどは忘れたかのようだった。


ハッピーバレーは黄泥涌という名の峡谷で、雨が降れば小さな河川から黄色く濁った水が溢れ出す湿地帯だった。いまも競馬場の回りを一周する道路に「黄泥涌道」の名が残る。香港の湿潤な気候に慣れない英軍駐留兵士らは多く病に倒れ、この地に葬られた。兵士らはいつしか「ハッピーバレー」と呼ぶようになったという。来世での平安を祈ったのだろうか。からゆきさんたちにも心安らかなときが訪れていてほしいと思った

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