アジア新風土記(24)蓬莱の海へ



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。



沖縄在住の青山惠昭さんの新著『蓬莱の海へ 台湾二・二八事件 失踪した父と家族の軌跡』(ボーダーインク、2021年)を読む。


『蓬莱の海へ』の表紙。和平島(社寮島)北東側の千畳敷海岸(惠昭さんのスケッチ)。









惠昭さんは1943年、鹿児島県与論島出身の父惠先(えさき)さんと沖縄県国頭村出身の母美江さんの長男として、台湾の基隆・社寮島で生まれた。惠先さんは惠昭さんが3歳だった47年2月28日に台湾で起きた国民政府台湾省・軍による台湾人大量虐殺事件「二・二八事件」に遭遇、消息を絶った。



『蓬莱の海へ』は、惠昭さんが失踪した父の足跡を辿り、当時の証言者の話を基に台湾側に被害者認定と損害補償を求めた裁判で外国人として初めて勝訴するまでの日々を描いたものだ。さらに米軍政府統治下の沖縄で「非琉球人」「奄美人」として常に在留許可証携行を義務付けられ、就職、土地取得などでも「差別」された体験を綴る。
父の故郷、与論島の人たちが1898(明治31)年の台風による大飢饉を機に長崎県・口之津へ移住、三井鉱山・三池港の開発に伴って福岡県・大牟田に再移住したこと、中国・東北地方(旧満州)の荒地を開墾、敗戦後の過酷な引揚げを経験した与論開拓団のことにも触れていく。

父の生涯を追う道程は、風化する歴史が閉じ込めようとする事実の一つ一つを照射していく旅だった。


惠昭さんは父の跡を求め、鹿児島での漁師見習い時代に遡る。年季奉公を終えた惠先さんは従兄の青山先澤さんに台湾行を誘われる。先澤さんは基隆湾口の社寮島でカジキ漁突きん棒船の船長をしていた。台湾はそのころ「蓬莱島」とも呼ばれ、沖縄の人たちが多く出稼ぎに出かけていた。社寮島にも沖縄漁民が早くから住みつき、暮らしていた。

惠先さんは社寮島で美江さんと結婚、惠昭さんが生まれた後、出征する。
敗戦後の46年5
月に鹿児島に復員、社寮島に葉書を書く。
しかし、美江さんと惠昭さんの引揚船が佐世保・浦頭港に着岸したのは47年1月初めだった。
2月末、美江さん母子はようやく鹿児島に着くが、惠先さんはその直前に家族を呼び寄せるために台湾に渡っていた。

台湾では2月27日夕、台北で台湾人たばこ密売者と台湾省政府官吏とのトラブルが起き、住民の台湾省政府への不満が爆発、翌28日にはデモが全島に広がる。省政府は大陸に応援部隊を要請、台湾人を無差別に殺害していった。基隆でも無数の人たちが国民党軍に拉致殺害された。そのとき惠先さんは社寮島にいた。

1993年8月、惠昭さんは父の「失踪宣告」を那覇家裁に申し立て、翌94年9月に「死亡届」が受理される。青山先澤さんの証言や先澤さんの妻ミネさんが与那国島の知人から「惠先さんが蒋介石の軍隊に捕まり縛られ無理やり連れて行かれた」と聞かされた話などが採用された。殺された場所は島の北東側の「千畳敷海岸」とみられている。

「失踪宣告」は確定した。
「重石が取れた」という気持ちに包まれて10年以上が過ぎ、惠昭さんに新たな感情が芽生える。

「時が経つにつれ、大事なことを置き去りにしたままではないか、という思いが強くなった。父は、『台湾2・28事件で行方不明になり殺害された』それは母と私がそう思っているだけで、失踪宣告が確定したからといって、裁判所が2・28事件に遭遇したと証明している訳ではない」

2011年、台湾政府に対して賠償請求の訴えを起こす。しかし、惠先さんが社寮島で殺害された「事実関係」は認められたものの、台湾籍元慰安婦と台湾籍旧日本兵に対する日本政府の戦後補償がなされていないなどの理由で却下された。
惠昭さんは諦めなかった。「人間の尊厳、人権に国境はない」として不服を申し立て、再検討を求めた。


16年2月17日、台北高等行政法院はこれまでの処分と決定を取り消し、600万台湾ドル(約2500万円)の賠償を命じる判決を下した。控訴はなかった。弁護団を支えてきた台湾政府中央研究院の法学者、廖福特氏は「台湾は過去の過ちに向き合うことができた。日本もできるはずだ」と語った。

台湾の反応は賛否両論だった。弁護団の劉又禎弁護士は「慰安婦に対する賠償も一切なくお詫びすらしない日本政府に対し、政府が賠償するのは税金の無駄遣いだ」とする人たちの話を紹介する。

惠昭さんは「台湾当局が示した、個人の戦後補償問題についての人道的なメッセージについて、私たちは重く受け止めなければならないと思う」と振り返る。個人と国家の問題は台湾と日本だけではなく、韓国の元徴用工問題などにもあてはまる。東アジアの「戦後補償」に惠昭さんの裁判が一石を投じたことになるのか。

台湾政府の調査は続いている。惠昭さんは日本人犠牲者は15人とみる。台湾の有力紙「臺灣新生報」総経理だった父を殺された阮美妹(みす)さんは、かつて日本人犠牲者の遺族を尋ねたとき「そっとしておいてほしい」と言われたことがある。台湾社会が真相究明に大きく動き出す前だった。現在だったならばどうなのか。


『蓬莱の海へ』を読み終え、数日の行き違いさえなければ、と思う。

惠昭さんは「引揚者収容所で待機し南風崎駅(引揚者らが乗った駅=筆者注)から汽車に乗って」と書くだけだ。夫が鹿児島にいることはわかっていた。美江さん母子はなぜ2か月近くも収容所にいたのか。日本政府は戦後、沖縄県人を「琉球人」として対応した。佐世保引揚援護局員の「非日本人として取り扱わなければならない」という話もある。沖縄県人である美江さんが普通の日本人とは異なる待遇を受けたのか。「待機」は何だったのか。

惠昭さんは社寮島を「私にとって生と死の島である。私が生まれ、父が死に至らされた島である」と表現する。

社寮島は戦後「和平島」と改名された。鎮魂の気持ちが込められていたのだろうか。島の北側一帯は海浜公園として整備されていた。奇岩が続く波打ち際に立ち、千畳敷海岸の海辺を歩いた。瀬戸の船溜まりに漁船が数隻舫(もや)いをつないでいた。「和平」は事件と犠牲者のすべてを覆い隠すかのような名前だと、そのとき感じた。


和平島北部の海辺。基隆嶼を望む。

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