アジア新風土記(19)マカオの12月



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。






マカオはかつて「蓮花島」あるいは「蓮花州」といわれた。中国南部、珠江の河口西に位置するマカオ半島がいまよりはるかに細長くハスの形に似ていたことから言い伝えられたとも、元々ハスが多く群生していた土地だったことから名付けられたともいわれる。マカオの人たちはハスの持つ神秘的な力に命運を託し守られていると信じてきた。

マカオ半島東側の香港と往来するフェリー波止場から南に歩いてほどなくすると盛世蓮花広場(Lotus Square)にぶつかる。中央に立つ金色の盛世蓮花の像は1999年12月20日、ポルトガル植民地マカオが中国に返還されたときに中国国務院から贈られたものだ。ハスの花はマカオ特別行政区の区旗にも緑色の地に白く描かれた。


盛世蓮花像。香港の金紫荊花像のように民主化運動の若者らに「占拠」されたことはない

2021年12月で返還22年を迎えるマカオは、香港と同じく資本主義体制が50年間保障された「一国二制度」が採用されたが、民主化運動への胎動はほとんどなかった。

マカオ特区政府はトップの行政長官が各界代表ら400人によって選出され、議会である立法会は直接選挙枠14、各種業界代表12、行政長官推薦7の計33議席で構成される。行政長官は親中派有力者から選ばれ、立法会もまた親中派が圧倒的多数を占める。17年の前回立法会選挙では民主派はわずか4議席を得ただけだった。

中国は平穏なマカオにも「愛国者」を求める。21年9月の立法会選挙は中国政府、マカオ政府に忠誠を誓う候補者以外の立候補資格が取り消され、前回当選した4人の民主派議員も例外ではなかった。香港の民主化運動は繰り返させないという意思表示だったのか。中間派の3人を除いてすべてが親中派で固められた選挙結果に反対の声はなかった。

4人の元民主派議員の1人、蘇嘉豪氏(30)は14年の「高官離職保障法案」反対デモの先頭に立った若者だ。台湾大学で学び、民主化が進む台湾社会の多様な姿を目の当たりにした経験があった。法案は退職した政府高官に在任中給与の7割を支給、公職中の仕事には刑事責任が及ばないとするもので、デモにはマンション高騰、物価高などによる格差の広がりに不満を募らせていた2万人が参加した。
蘇氏は当選後、行政長官の直接選挙を訴えたものの、香港のような大きなうねりになることはなかった。


マカオに暮らす65万の人たちは香港の750万人に比べて10分の1以下だ。約30平方キロの面積も1107平方キロの3パーセントにも満たない。香港のようなエネルギーを生み出すにはあまりにも小さなエリアということかもしれない。
一度は燃え上がった社会の公正さを求める動きの原因はマカオ政府の失政といえなくもなく、人々は医療、教育費などが免除され、若者らの多くがカジノに簡単に職を見つけられる環境下に満足しているからだという意見もあった。

ポルトガル植民地時代からの中国とのつきあいの濃さ、あるいは親密さの度合いの深さが、中国と対立を繰り返してきた英国・香港とは異なって、マカオに民主的政治システムを渇望する気持ちを芽生えさせなかったのだろうか。

大航海時代の先駆けであるポルトガルは16世紀初めに明との交易に乗り出し、珠江河口沿岸海域の海賊討伐に協力してマカオ居住権を認めさせる。中国大陸、日本との交易は活発化していき、カトリックのイエズス会も居留地からアジア各地への布教を続けた。
1887年、中葡和好通商条約によって正式な植民地としたが、そのころはすでに英国などの台頭によって国力は陰りを見せ始めていた。貿易港としての機能もまた珠江からの土砂が大型船の停泊を不可能にさせたことで失われていった。マカオは東アジアの片隅に埋もれたまま、アジア各地に惨禍をもたらした第2次大戦でもほとんど無傷のままやり過ごした。

マカオの12月は返還とともに人々がいまも記憶する出来事を現代史に刻む。
1966年12月3日、中国共産党系小学校の無許可増築工事が発端となった「一二三事件」が起きる。マカオ政庁の工事中止命令に住民が反発、親中派団体が主導する過激デモは警官隊と衝突、死者8人、負傷者200人以上の暴動になった。中国は人民解放軍をマカオとの境界近くに配備してポルトガル政府、マカオ政庁の全面的な譲歩を引き出した。マカオはこの時から中国の完全な影響下に入ったとみることもできる。

マカオの繁栄を支えているのはカジノ産業と世界遺産だ。カジノは改革開放政策で発展した大陸からの人と資金の流入に加え、2002年に経営権の国際入札が始まって活性化した。05年はユネスコが聖ポール天主堂跡媽閣廟など30の史跡を世界遺産に登録、海外からの観光客を惹きつけた。18年の1人当たり住民総所得は7万8640ドルに達し、香港の5万800ドル(19年)を大きく上回るまでになった。

中国政府の対応が香港ほど厳しくなかったこともある。国家安全維持法は09年に制定されたが、逃亡犯条例はまだ施行されていない。しかし、カジノと観光に頼ってきた財政がいつまで機能していくかはわからない。習近平国家主席の「共同富裕」という考えが徹底されつつあるなかで、マカオだけが豊かな財力を「特権」として維持できるかは未知数だ。

2021年12月3日の国営新華社通信はマカオに国家安全担当顧問を置き、そのトップに中央政府出先機関である駐マカオ連絡弁公室主任が就任すると伝える。担当顧問はマカオの国家安全維持委員会に出席、国家安全に関わる業務を監督・指導するとしており、香港と同じように統治を強化する動きだろう。


世界遺産・セナド広場中央の噴水はハスの花で囲まれている。5月は見頃には少し早かった



盛世蓮花広場から北西に歩いていくと古くからの中国人街に行き当たる。半島南部に色濃く残る南欧風の街並みとは異なる風情を見せ、小さな公園に並ぶ石製将棋台には昼過ぎともなると男たちの「縁台将棋」を囲む輪がいくつもできる。早朝の廟には出勤前に花を手向ける女性がいた。マカオの人たちの普段着の生活が垣間見える地区だ。

明朝後期の1592年創建の蓮峯廟が一角に佇む。廟入口の巨石にはポルトガルの旧王国旗が彫られていた。ハスの名を冠した古廟は清朝欽差大臣林則徐がアヘン戦争勃発直前の1839年にポルトガル官吏に協力を要請した道教寺院だ。静まり返った境内には林則徐紀念館と銅像があった。彼はアヘン没収、処分などの強硬策で臨んだが、英国の激しい抗議によって解任される。蓮花の加護はなかった。


蓮峯廟の林則徐紀念館1997年に開館した。なぜ香港に紀念館がないのか、不思議だった

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