アジア新風土記(16) タイ・プミポン国王死去から5年



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。







タイのプミポン国王が2016年10月13日に死去、長男のワチラロンコン新国王が即位して5年が経った。「敬愛する国王」を喪った社会は、14年5月のクーデターで全権を掌握したプラユット陸軍司令官による軍事政権・国家平和維持評議会から民政移管しただけの体制に抗議デモが繰り返され、タブーだった王室批判も公然と語られるなど、混迷が続く。新国王を戴いた国の姿はまだ、見えてこない。

社会の変容は21世紀に入ってからの不安定な政治情勢と深く関わっている。

1997年、軍部の発砲で市民300人以上が死んだ92年の「暗黒の5月事件」後の民主化運動が結実して新憲法が制定される。選挙制度は小選挙区比例代表並立制になった。有権者が選挙区定数分の票を持てる従来のブロック投票制に比べ、「一人一票」によって民意を反映した政党本位の結果が得られるシステムといわれた。

新しい選挙制度が取り入れられてから間もないころに東北部イサーン地方のウボンラーチャターニー県を訪れたとき、次の総選挙を目指した普及に取り組む若者らに会ったことがある。だれもが民主化の成果について熱っぽく語ってくれた。


その果実はしかし、総選挙後の新たな混乱を引き起こす元になってしまった。
歴史は時として皮肉な展開を用意する。


チェンマイ出身で実業家から政治家に転身したタクシン氏のタイ愛国党は2001年総選挙(下院)で新選挙制度を生かした地方票の獲得に成功して圧勝する。

同氏は首相就任後も村落ごとの基金設立、地方医療体制充実などの政策を打ち出して農民層の支持を広げた。農民らが投票によって政治を動かせると感じた権利意識の覚醒は、権力、利権を一手に握っていたバンコクの既得権者への反発となって表面化していった。

農村部を中心としたタクシン派と都市部の反タクシン派の対立というこれまでにはなかった構図が、その後10年以上も続くことになる。



バンコクの中華街、ヤオワラート通り。
同じ華人でも 客家のタクシン氏はあまり人気がないようだ。



タイの政治はクーデターなどで収拾がつかなくなったとき、国王が事態の仲裁者としての機能を発揮していたが、紛争のほとんどはバンコク内の出来事といってもよかった。

全土を巻き込んだ新たな対立は国王の立ち位置を難しくさせた。14年の軍事クーデターはわずか4日後にプミポン国王の承認を得る。軍部と結びつくバンコクの既成政治家、実業家ら既得権者の側に立ったともみられ、裁定は「民意の反映」を期待した人たちを失望させる。

前国王在位中は具体的な行動となって表面化することはなかったが、王室への不信はこのときすでに芽生えていたのかもしれない。



国家平和維持評議会は17年、新国王の支持を得て憲法を改正、軍政支持者で固めた上院(定数250)の議員にも首相指名権を与える。19年3月の総選挙(定数500)はプラユット氏の与党・国民国家の力党が第2党にとどまったものの、首班指名では上院の圧倒的な支持票が加わって、プラユット首相の実現をみる。


タクシン支持者と若者らのデモは首相退陣要求だけでなく王制批判へと踏み込んでいく。学生リーダーは集会で王室改革の要望書を警察トップに手渡すなど、不敬罪の廃止、王室資産の管理見直しなどを声高に訴えた。

若者らの主張は「王室絶対」の教育を受けた親たちとの亀裂を生み、香港で民主化を訴える若者と中国政府支持の親世代の断絶に似た状況をタイにも作り出していく。




不敬罪は刑法112条で定められ、国王、王妃、王位継承者らに対する中傷、侮辱などの行為は3年から15年の禁固刑が科せられる。罰則基準は曖昧で、映画館などで上映前に国王賛歌の「王室歌」が流れたときに起立しなければ罪に触れる可能性もある。王室資産は推定430億米ドルともいわれ、憲法改正によって王室財産管理局の運用管理から国王の個人名義になった。


バンコクに暮らす人たちからはよく、タイはバンコクとそれ以外の地域の二つで構成されているという話を聞いた。バンコクは都会であり人も富も集中している。51万4000平方キロの国土の0.3パーセントを占めるだけだが、人口は全人口6600万人の8パーセントを超えて560万人だ。



バンコクから車で1時間も走れば市街地はすでになく、農村地帯が広がっている。田舎に出て初めて、タイにはバンコクとは全く異なる風土があり、そこに暮らす人たちがいることを実感する。

6月の末ともなると田植えが始まる。歩いた先の田に水は少なかった。苗束を持った農夫が粘土質の土壌では水が少しあればイネは十分に育つと教えてくれた。灌漑用の運河には農民らが網をかけていた。運河が水を引き込む川の流れによって魚の入りが変わり、魚料理の定番でもあるライギョが獲れることもあると話していた。


1ライ(1600平方㍍)の田にイネの苗束400を用意する。
1束に1000本以上の 苗があり、1度に3本ずつ植えるという。




イサーン地方はタイの中でも貧しい地域として知られている。
土地が所々、岩塩で白くなっていた。かつては豊かな田園だったろうと想像する。地下に岩塩層が広がる一帯は河川などの水資源に乏しく井戸から地下水をくみ上げるしかない。

乾季には地中の岩塩が水と一緒に地表まで吸い上げられ、塩の蓄積した田畑は耕地としては使えなくなる。イサーンの東にはメコン川が流れているが、大河の水をこの地まで届かせる灌漑設備はないという。



豊かなバンコクと貧しい農村部を繋ぎ合わせ、繋ぎとめ、一つの国家として成り立たせてきた最大のファクターは70年在位したプミポン前国王であり、その人柄にあった。バンコクの人でもイサーンの人でも同じ気持ちだったのではないか。

5年の歳月が過ぎ、国王・王室と国民との垣根は徐々に低くなってきている。人々にとって遠くから畏敬の眼差しで眺めていた対象が一挙に身近になったことを示す「事件」に、総選挙でタクシン派のタイ国家維持党による前国王長女ウボンラット王女の首相候補擁立がある。画策は憲法裁判所の政党法違反判断で失敗したが、前国王の時代であれば、このような発想が生まれただろうかと思う。


新型コロナウイルスの蔓延は政府への抗議と王室改革の動きを鎮静化させたかにみえる。

タイの人たちの思いは熾火(おきび)のようになお、燃えているのだろうか。

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