アジア新風土記(10)モンゴル建国100年



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。




モンゴルの草原は起伏に富んでいる。草が豊かに背丈を伸ばしているところもあれば、地にへばりついているようなところもある。
様々な草の大地が際限なく続いている。視界の先にある山も山のように見えて丘でしかない。
車で30分も走るだけで、「輪郭」のない景色に言いようのない不安を覚える。落ち着かなくなった心を疾走する馬たちがなぐさめてくれる。羊たちの群れもどこか拠り所のない草原にあって、安心感を与えてくれた。




人の少ない草原に時折、ゲル(パオ)と遊牧の人たちを見かける。車を止めて近づくと笑顔でゲルの中に誘ってくれる。キセルをふかしていた老人が「いくつになっても、いい馬を育てたい。ここが止まるまでだ」と、心臓を何度も強くたたいた。

少し酸っぱい馬乳酒が心地よかった。飲むときは指をコップの中にちょっとつけ、ピンと跳ね上げる。「青い空がいつまでもありますように」という、昔からのおまじないだった。


モンゴルは2021年7月、建国100年を迎えた。
第1次大戦が終わって間もない1921年、王侯貴族らがチベット仏教の活仏(かつぶつ)、ジェプツンダンバ8世を君主とした立憲君主制国家を樹立する。
この地を支配していた中国・清朝が倒れた辛亥革命から10年が過ぎていた。

3年後、ジェプツンダンバ8世の死去に伴い、人民共和国へと政体を変更、人民革命党の一党独裁体制が第2次大戦後も長く続いた。

89年からのソ連、東欧の民主化運動は、同じ社会主義国のモンゴルにも大きな影響を与える。翌春、人民革命党が一党独裁体制を放棄、自由選挙への道を進むことになる。


初めての自由選挙。候補者を絞る予備選挙からすでに熱気が伝わってきた。(90年7月)

90年7月29日、人民革命党ほか5党が参加した総選挙は、モンゴルの人たちにとっては生まれて初めての「闘う選挙」になった。候補者も支援者も選管の人もだれもが初めての経験に、すべてが手探りの状況だった。その選挙を取材する。

おおらかな選挙に戸別訪問の制約はない。買収、中傷、妨害以外はなにをやってもよかった。選挙資金の制限もなく、政党幹部らは「どこにどれだけつぎ込んでいいのかわからない」とこぼした。

候補者の集会はいつも同じ場所だった。選挙スタッフは「場所を変えると有権者が演説をどこで聞いていいかわからなくなる」と説明した。

都市部を離れた遊牧民らのゲルに出向く候補者の足は、馬、自動車、オートバイと様々だった。


20世紀も終わりになって、このような選挙があることに驚いた。
「総選挙」という言葉からどうしても日本の状況と比べてしまった。






モンゴルは以後今日まで30年にわたって、自由選挙システムが機能する。
国家大会議(国会)の選挙は4年に1回行われ、2020年6月の第8回総選挙では与党・人民党が大勝した。

国家元首である大統領選挙も4年ごとに行われ、21年6月の「任期満了」に伴う選挙では前首相のフレルスフ氏が民主化から6人目の大統領に選出された。いずれの選挙でも混乱したという情報は聞こえてこなかった。




社会は経済格差の広がりなどを抱えているが、石炭、銅、レアメタルなどの豊富な鉱物資源に恵まれ、突発的な政変のない「安定した」国家を存続させているとも言えた。中国がいまもなお、中国共産党の一党独裁体制を続けているという事実をみるとき、あるいは、民主化が進んだかに見えたタイ、ミャンマーなどで軍事力を背景にした政権が権力を握る現状をみるとき、モンゴルの歩みが堅実なものと映ってくる。


モンゴルの民主化は政治体制だけでなく宗教にも及び、チベットから伝播したといわれる仏教もまた復活する。建国時こそ最高権威の活仏を元首として擁立したものの、ジェプツンダンバ8世の死後、宗教弾圧によってチベット寺院が破壊され、僧侶も殺害された。

自由な社会になってからは多くの仏教寺院が再建、あるいは建立された。中国の宗教政策によってチベット自治区内での仏教衰退がいわれる中で、モンゴルにチベット仏教が残ることの意味は大きいのかもしれない。


山間に再建された「ゲル」の寺。中は50平方㍍ほどで、祭壇を前に20人のラマ僧が経典に取り組んでいた。(90年7月)




モンゴルは清朝の版図に加えられた17世紀以降、外モンゴル(現在のモンゴル)と内モンゴル(内モンゴル自治区)に分けられた。

辛亥革命後、独立に向けた運動が活発化、外モンゴルは帝政ロシアの支援を得て独立する。人口は現在333万人。

中国の影響力が強かった内モンゴルはそのまま内モンゴル自治区として残り、人口2400万人の80パーセント強を漢人が占める。

都市部よりは遊牧生活を好むモンゴル人は410万人しか暮らしていない。
朝鮮半島では民族の「分断」という言葉はよく使われるが、モンゴル民族の「分断」という表現は、馴染みが薄い。



モンゴル東部、内モンゴル自治区は第1次大戦後の東北アジア進出を窺う日本が蹂躙した地域でもある。野望は1931年の満州事変と満州国樹立で現実のものとなる。

内モンゴル東部は満州国に組み込まれ、西南部もまた37年の傀儡政権・蒙疆(もうきょう)政権によって日本の支配下に入った。

39年5月には関東軍が満州国とモンゴルとの「国境」を巡ってノモンハンで軍事行動を起こす。だが、モンゴルを支援するソ連軍の機械化部隊に圧倒され、多くの犠牲者を出した末の9月15日、休戦協定締結を余儀なくされた。


満州国の「痕跡」がウランバートルの小高い丘にあった。敗戦直後に亡くなった日本人の墓地だ。

墓石代わりの小さなコンクリートの塊が草の中に整然と並び、それぞれに名前を記した札が立っていた。墓地は低い柵であたりの草原とわずかに分けられていた。



朝日新聞社が入手したモンゴル公文書管理庁の抑留政策関係文書によると、ソ連がシベリア経由でモンゴルに移送した日本人捕虜は1万2318人にのぼった。捕虜を使って首都近代化を図るというモンゴル政府の要請に基づくものだった。(1995年6月19日付け)


ウランバートル郊外・フジルブラン収容所の元所長は「毎日の仕事場は収容所から300メートル離れた野外のレンガ造り工場だった。何人死んだかの正確な数字はわからない。100人はいなかったと思う。隊長はそのたびに遺髪と爪を小さな木の箱に納め、名前を書いていた」と話してくれた。




モンゴルにはこれまでに2回行った。
夏の盛りのときと、まだ吹雪く日のある3月だった。
草原に淡い柔らかな輝きが満ちてくる季節は、まだ知らない。


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