アジア新風土記(6)西表・緑の牢獄2



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。





『緑の牢獄』について、いま少しこのコラムを借りたい。

西表島にかつて炭鉱があり、日本人以外にも台湾人、朝鮮人らが過酷な環境下で働き、死んでいった事実は、現代史のなかでどれほどのインパクトがあるのだろうか。

炭鉱がローカルな出来事として記憶された背景には、本土から、そして沖縄本島からも遠く離れた島の炭鉱であり、石垣島発行の地元紙に時々掲載される程度だったということが大きかったのではないか。あるいは、炭鉱の最初の坑夫が沖縄本島の囚人だったという、決して晴れがましいものではなかったことも影響しているかもしれない。


昭和初期の炭鉱への人々の認識の一端を八重山郡石垣町の「先嶋朝日新聞」にみる。

1931(昭和6)年4月3日紙面は「西表炭坑巡り」を載せる。

「西表炭坑は本縣に於ける汽船汽車湯屋酒屋等の燃料を供給する唯一の天然資源の埋蔵地であり殊に本郡としては航通経済上密接の関係を有する古い言葉で云へば鳥の兩翼車の兩輪の如き間柄である事は餘りに明かで智者を俟(ま)つて後に始めて知るまでもない事である」


戦前の西表島は那覇と植民地・台湾の基隆を結ぶ定期航路の寄港地になっていた。台湾北部の炭鉱などで働いていた台湾人坑夫らが気軽に島に渡ってきた理由の一つかもしれない。

台湾人が経営する炭坑に暮らす台湾女性の記事もあった。 

「此處の坑夫は台灣人と本縣人が混同して働いてゐるが一つ眼についたのは台灣婦人が頭を琉球髷げ□なし沖縄かんざしを差してゐるのは如何にも異風であつたが互に同化し同化せられつゝ和気靄然(わきあいぜん)の親しみを無言の裡に現はしてゐるのが何よりも愉快の感じがした」(昭和6年4月23日付け「先嶋朝日新聞」)

『民衆史を掘る―西表炭坑紀行』(三木健、本邦書籍、1983年)は外国人労働者について「1908(明治41)年に、元成屋で採炭事業を始めた八重山炭鉱汽船が、坑夫に福州人150人、台湾人250人を使っていた、という記録が1936(昭和11)年西表マラリア防遏(ぼうあつ)班編の『西表島の概況』に散見されるのが、最初である」と書く。さらに、実際は日本が台湾を植民地とした直後の明治の30年代からではないかと推測する。


沖縄県教委の『沖縄県史ビジュアル版6・沖縄と台湾』(2000年)には「多い時には、400人から500人の台湾人坑夫が働いていたという証言もあります」とあった。

朝鮮人労働者については、数人が働いていたと話す坑夫の証言があるものの、その実態は明らかになっていない。戦前の八重山での朝鮮人の足跡を辿ることは難しく、与那国島で朝鮮人慰安婦が米軍機の機銃掃射で殺された事件は、墓標の場所もわからず、その事実を確かめる術さえも消えようとしている。


西表島の炭鉱については『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(高文研)の取材がきっかけだった。八重山出身の三木健さんの『聞書・西表炭坑』(三一書房、1982年)を読み、島の北部を流れる浦内川支流の宇多良川沿いにある「宇多良炭坑・萬骨碑」のことなどを知った。




三木さんは炭鉱を「緑の牢獄」と表現した。「第4回やしの実大学公開講座in八重山」(『月刊やいま』2000年9月号所収)で話す。


「私がはじめて西表炭坑のことを知ったのは、1950年代の終わりごろ、八重山高校1年のときクラブ旅行で(西表島の)白浜に来たときでした。(中略)そこで私は村はずれに幽霊が出るという話を聞きました。それが炭坑と関係があるらしく、殺された坑夫たちが夜になって出てくるのだということでした」

「幽霊」は映画『緑の炭鉱』で台湾人の「親方」である陳蒼明さんの話が裏付ける。

「朝4時、5時頃よ、夜が明ける前よ」「子供が(骨に)踏まれてよ、泣いて言いよった」

「魂がね、化けて出ようとするよ」


1933(昭和8)年11月27日の「先嶋朝日新聞」を拾う。

「武富村西表マラリア防遏出張所結の翁長巡査は仲里防疫醫 黒島監吏と定期採血のため 元成屋「八重山炭坑跡」を通つたところ 人骨「サレ首 手 足等がゴロ□□路上に散亂してゐるのを発見 □□□のみならず砂濱に五ケ所の棺が去□二回の暴風で露出し この 昭和聖代にあるまじきグロテスク「怪奇」に啞然とした(後略)」

三木さんは65年に琉球新報社に入り、八重山の歴史を調べるようになる。

「西表炭坑のことは、どの歴史の本を見てもくわしく書かれたものはありませんでした。せいぜい5、6行で書かれているだけで実態は書かれていませんでした」

「いったい西表炭坑の歴史は、5、6行で処理されるような歴史なのであろうか」



67年春、学生だった私は西表島を歩いた。白浜近くの浜辺で小魚を追い、洞窟にも入った。集落の人に炭鉱のことを聞けば何か教えてくれたかもしれない。そのころの私に炭鉱の知識はなかった。

深い森は足を少し踏み入れただけで、体全体がじわーとしたものにまとわりつかれたような感じにさせた。なにか得体の知れない生き物のような感触に足がすくむ。じっと立っていると頭上の枝から湿った空気が下りてくる。地上の落ち葉はなかば土に変わっていた。密生する葉と葉が幾重にも重なって、その先が見えない。光が微かに届くところと届かないところの明暗が際立ち、思わず光を求めて歩き出して杣道を踏み外した。

浦内川沿いの道は、かつて登った山道だったか。定かではないまま15分ほどで、宇多良炭坑貯炭場跡に立つ萬骨碑に着く。トロッコレールの赤レンガ支柱にガジュマルの大木が絡みつき、オオバイヌビワ、アダンなどの常緑樹、ヒカゲヘゴといったシダたちに取り囲まれていた。支柱もコンクリート遺構もやがて崩れ落ちていくとき、高さ1・5メートルの萬骨碑だけが、炭坑の存在を伝えていくのだろうか。


宇多良炭坑萬骨碑。「近代化産業遺産群」認定を機に、2010年に建立された







慰霊碑は戦前の内離島の「萬魂碑」「供養塔」と合わせて3つになった





宇多良炭坑跡のコンクリート遺構



浦内川はいま、マングローブ見学などの遊覧船が行き来する。カヌー教室が開かれ、修学旅行のコースにもなっていると聞いた。宇多良川はカヌーが走るあたりのすぐ上流で合流する。狭く静まり返った川面の先を木々が遮って、暗かった。



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