アジア新風土記(7)香港・天安門事件追悼集会



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。



香港島・ビクトリア公園の6月4日はいつの年も、夕暮れが迫り、夜の闇が色濃くなっていくほどに、人々の深い哀しみに包まれていく。1989年に北京で起きた天安門事件の犠牲者を追悼する「燭光悼念集会」に集まった人たちは、小さなろうそくの揺れに、民主化を訴えて倒れた若者らへの祈りと、自由な香港への願いを託した。

2020年、香港政府は新型コロナの蔓延を防ぐとして初めて集会を禁止する。しかし、公園には1万近い人たちが警官らの制止を無視する形で集まった。香港国家安全維持法(国安法)が6月末に施行されると、当局の締め付けは目に見えて強くなっていった。民主派関係者らがその日の行動を問われ、未許可集会参加の罪で4人に実刑判決が言い渡される。

集会は21年も同じ理由で認められなかった。6月4日夜、公園は警察当局によって封鎖され、出入りは完全に阻止される。3千人の警官らは催涙スプレー、拳銃、撮影機器を携行、集まった人たちを次々に排除していった。

それでも・・・

香港の人たちは公園の周囲を去らなかった。ろうそくを灯して立ち止まり、スマホを照らして歩いた。その光の一つ一つが、香港の存在そのものを強くアピールした。




集会は禁止できても「明かり」は消せなかった(21年6月4日)





1989年の中国の民主化運動と天安門事件に香港の関心は高かった。

この年結成された「香港市民支援愛国民主運動連合会(支連会)」は香港の13華字紙に掲載された1616件の意見広告を「89年中国民主運動意見広告特集」としてB4判455ページにまとめる。

天安門広場の学生らが解放軍に武力鎮圧された事件の詳細が明らかになりつつあった6月7日には1日で257件になった。

紙面に黒字に白抜きで「痛」と一文字だけのものもあった。


ビクトリア公園の天安門事件追悼集会は90年から毎年の恒例になる。天安門広場の映像が流れ、王丹氏ら海外に脱出した民主化運動のリーダーが会場中央のスクリーンから語りかけ、子供を殺された遺族らの声が読み上げられた。


91年に長江流域で起きた大洪水でも、父祖の地、同胞への熱いメッセージは続いた。
被災地への義援金総額は6億香港ドル(約108億円、1香港ドルは約18円、当時)になり、各テレビ局は競ってチャリティー番組を制作した。

海外華人では最高だったタイの3000万元(約7億8千万円、1元は約26円)と比べてもその額は群を抜いていた。香港の余裕がさせたともいえる支援には、豊かさと力を示したいという気持ちも含まれていたかもしれない。
97年には中国に返還されることは決まっていても、実感として受け止めるにはまだ先の話だった。




97年7月1日の返還を挟んだ前後2回の追悼集会は、香港の人たちには特別の思いがあった。

返還まで30日を切った6月4日、公園は5万を超える人たちで埋まった。中国にとって天安門事件は国家への反逆であり動乱である。
香港の外交、防衛を除く「高度な自治」を返還後50年保障する一国二制度が実施されても、中国という国家の一部に組み入れられるという事実は変わらない。
人々は「もうできないのでは」という不安の中で、最後の集会を覚悟した。

 

中国・香港特別行政区になって迎えた初の集会は、事件の犠牲者を悼み、大陸の民主化を呼びかけるだけでなく、自分たちの社会システムを保障する後ろ盾にもなった。香港で集会を継続することに新たな意味が加わったとも言えた。


激しい雨の中の集会だった。だれもが濡れた服を拭うよりも、手元のろうそくの灯を守ることに心を砕いていた。寄り添う恋人たちがいた。黙想する学生が、母親の手を握る少女がいた。大陸とは異なる香港がまだ、そこにはあった。




返還から10年、15年と過ぎていき、中国経済の飛躍的な発展が香港に大きな影を落としていく。香港の人たちが同情する大陸はすでに消えていた。集会参加者もいかに自由社会を守っていくかに腐心する度合いを深めていった。


その動きは国安法によって大きく頓挫する。政府批判の報道に圧力がかかり、抗議活動、デモなどへの徹底した取り締まりに、社会は一国二制度の「瓦解」を見る。

どこにも希望の道筋を見つけることができないような状況下で追悼集会の意義はどこにあるのか、30年以上も前の大陸の出来事にどのような感情を抱けばいいのか。そう思い始めた人は少なくない。

集会を主催してきた支連会の存続について、使命は終わった、と考える人も増えていると聞いた




天安門事件25年の追悼集会(14年6月4日)


2014年、支連会が九龍半島・尖沙咀(チムサーチョイ)に開館した「六四記念館」は、「大陸とは異なる香港」のもう一つの象徴だった。雑居ビルの一室を正規の手続きで買い取ったという話に、友人は「法治社会はまだ生きている」と少し誇らしげだった。


記念館には天安門広場の「民主の女神像」のレプリカ、広場周辺の地図、報道記事、写真、映像、遺族のインタビュー動画などが展示された。事件を単なる記憶に留めるのではなく、より具体的にとらえていこうとする試みだった。

香港人だけでなく、観光に来た大陸の若者らも訪れる。学校で教えられたことはなく、ほとんど見聞きしたことのない事件の概要に驚くという。


記念館は一度は閉館となったが、16年に場所を変更して存続する。
21年5月30日には展示内容を入れ替えてリニューアルオープンしたものの、3日後に「公衆娯楽場所」の認可を得ていないとして閉館に追い込まれる。
当局からのそのような指摘はこれまで受けたことはなかった。



「国家に対する反逆事件」を詳らかにする行為は、明らかな体制批判とみなされるかもしれない。香港の人たちはいま、集会も、記念館も再び開かれることはないと感じている。



22年6月4日、新型コロナは終息に向かっているだろう。そのとき、追悼集会の「禁止」にどのような理由がつけられるのだろうか。




「六四記念館」前に立つ支連会メンバー(21年5月30日)







 

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